「麻薬が悪い」のではなく「麻薬の副作用が悪い」といわないといけない。インチキはやめよう。 | 結局、愚痴のはきだめ

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非公開ブログを目指していたけど…挫折。



「麻薬が悪い」という物言いは僕は「欺瞞にまみれた物言い」だと思うわけです。

なにしろ「麻薬」というものの第一の条件は「気持ちよくなること、ないし、苦痛を和らげること」であるわけで、

過度な依存や、それにともなう禁断症状などのことは、むしろ「企図せず起こってしまう困った作用」であるはずなんですよね。

いまやその「本来の効用」のほうではなくて「副作用」の方にのみ意識が向けられて、副作用のほうと短絡させることで「麻薬はとにかく悪いのだ」みたいな認識が常識化されてしまっている。

「気持ちいいことそのものが悪い」というのは、いってしまえば「サディズム的な発想による短絡」ですよね?

個々の場面において「誰かの気持ちよさのために、他の誰かの苦しみが生まれている」ということなどの確実な因果性が確認されるのであれば、それは「害」と認定すべきだと僕だって認める余地は多いにあります。

だけどそういう「害悪との因果関係」という致命的に重要なポイント押えることもなく漫然と「楽に気持ちよくなることは悪である」とか言ってしまうのだとすれば、それはなんだかサディズムやら時代錯誤の軍隊的根性論のように思えて、僕は全く納得できないんですよね。

さらにいえばそこには「麻薬を使っている人」と「麻薬を使っていない人」という「大きな主語によるどんぶり勘定」という構図もあるかと思うわけです。

「細かいことは気にするな♪それ悪魔化ぁ♪悪魔化ぁ~♪」というノリが大好きで、それをもって無駄に社会をめちゃくちゃにかきまぜるという「快楽的社会運動」をやらかしている一部の破廉恥現代左派の常套手段と同じような弊害を僕はそこに感じざるをえません。

だって、細かいことはやっぱり大切でしょう?細かいことが意味がないなら“近代裁判なんて要らないよね。魔女裁判くらい雑なリンチ的裁きでオッケーだよね?”ってことにもなってしまうわけですが、僕は近代的な裁判を受ける権利の保障がないような前近代的な社会には住みたいとは全く思えません。



まどろっこしいようですけど、麻薬については正しくは以下のようにいわなければならないと思います。

「今のところ大半の麻薬には使用者自身も苦しめる副作用がついてきてしまうので、暫定的にいって麻薬は悪い」

というようなことです。


麻薬にたいしての、以上のような穏当な把握というものがおしのけられて、そのかわりに極端な「麻薬悪者論」が広く通用してしまっている背景にはだいたい以下の二つの相互に対照的な力学が働いているのだろうと思っています。

①【保守的な視座からの嫌麻薬論】

 我々人間は伝統社会がはぐくんできた「家族」や家族の概念の延長としての「社会・国家」という「意味」にラリッて、その適切な運営のために専心するべきなのであり、麻薬なんかで安易にラリッて気持ち良くなって、それらへの勤めがおろそかになるのは堕落であり悪徳なのである。


②【グローバリズム金権主義からの嫌麻薬論】

マーケット自由主義の心臓部は「庶民が日々のパン・生活のために日々あくせく働く」というカラクリなのであり、そこに致命的な打撃を与えることになる「社会における麻薬の蔓延」というものは是非とも回避しなければならない。

我々スーパーリッチにとって、庶民を依存状態に誘いこんで、そこに「生産と消費のサイクル」を成立させることは、もちろん極めて重要な手法ではある。

そういう意味では実は麻薬は短期的なスパンでいえば金儲けの最強のツールなのであり、実際に我々は中国にアヘンを流し込むなどの実行経験があったりもする。

しかし、そのやり方はあの時代とあの状況(中国という文化的に進んでいた国から儲けをあげる必要)において選択された特異な方法でしかないのであり、今や「麻薬という金儲けに安易に手をつける」ということは「金儲けの持続可能性」という点でも「結果的な儲けの累積」という意味でも多いに欠点がある選択肢としかいいようがないのである。

金融という連鎖を介して「生産」と「消費」というどっちの「金が動く契機」においても、我々スーパーリッチのところに庶民の活動から「事実上の通行料≒貢納金」がチャリンチャリンと吸い上げられること、これこそが我々の核心的かつサステイナブルなビジネスモデルなのである。

しかし、現在における麻薬というものは副作用も絶大なのであり、それなりの確率で「労働力として使い物にならない状態の庶民の出現」や「ついには死に至ってしまう庶民」を生み出してしまう。

それでは元も子もないのである。それは我々スーパーリッチの富と力の源泉である「庶民を生かさず殺さず、生産と消費の両面において、あくせく活動させ続けるべし」という肝心要のところを破壊しかねない危険な事態なのである。

(庶民は今や一回的にとさつして食するだけの「獲物」としてみるべきではなく「家畜」として扱うべきものなのである。反抗させず、また殺しもせず、家畜が生きているかぎりそこから富を搾り取れるだけしぼりとらないといけない。庶民ごとのLTVを最大化させることこそがその戦力上での至上命題なのだ。)

「庶民をマーケットにあふれる魅力的なプロダクトに依存させつづけるも、庶民が無駄に死んだりして、その労働と消費のサイクルから脱落することは絶対に避けなければならない。生産と消費という搾取サイクルの内に庶民を囲い込み続けなければならない」ということにおいて、麻薬という商品の蔓延は「特段の事情がない限り許されない我々支配層にとって危険な飛び道具」なのである。


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このブログではうるさいくらいに主張していることですが、僕は明確な意識において「グローバリズムに反対する人間」です。

だから、単純に党派的な文脈でいくと①に共感する人間という流れになるはずなわけですが、

とはいえ、僕は①のような主張にもからなずしも共感しません。その価値観・価値判断そのものに共感しないというよりは、それを全体主義的に社会に広く押し付けようという姿勢には共感ができないということです。他者を害しないかぎり「麻薬≒依存」の対象を何にするかは各人が自由な判断で決めるべきだと思います。

(※あとで後悔しないように、きわめて厳格な手続きのもとで使用許可を下すというような仕組みはあっていいかと思っています。たとえば安楽死などが法制化されている国においても、安楽死実行の許可というものにはかなり厳格な手続的な規制がかかっているようです。麻薬についても同じような感じで、当人のしっかりした理解を踏まえた上での使用の決断を確保する、というような手続き的な規制をかけること自体に僕は反対する立場ではありません。軽はずみな判断で麻薬を使っていいとは僕も思わないので、そのへんは弊害に相応の“真摯な意思を確認する手続き”などというのはあったほうがむしろいいかもとすら思っています。)

「俺は家庭に意味を求め、家庭にラリッていたい」という人は家庭を麻薬として生きていけばいいし、

「私は国家に意味を求め、国家に萌えていたい」という人は国家を麻薬として生きていけばいいし、

「僕はコンピューターゲームがとにかく大好きだから、ゲームプレイにラリっていたい」という人はゲームを麻薬として生きていけばいい…。


そして、今はまだ「副作用」の点で問題があり「禁制品」とされていることには一理あるものである「文字通りの麻薬」というものについても、

物と場合(使う人の事情とか)によっては「個人の快楽獲得のための選択」として許されていいものだってあるはずだと思うわけですよ。

たとえば「お酒」だって「麻薬の親戚」みたいなものですよね?向精神作用という意味では立派に麻薬と同じくくりといえる。

あれ(お酒)は、未成年の摂取はダメです、などという申し訳程度の規制はありつつも、すでに広く社会において許されているわけですよ。必ずしも副作用がないわけでもないのにね。

それこそがすでに「向精神物質(≒麻薬)はグラデーションである。グレーである」ということを現行法体系の姿勢が露呈してしまっているんじゃないでしょうか。

僕はそれをして「だから酒も禁じるべきだ」とか考えているわけではないのでご注意を。

むしろ「なんで他人が気持ちよくなることを悪いことだと短絡して禁圧しようとする?他人が気持ちよくなっていることが許せないというようなゆがんだ嫉妬かよ?そんなことに社会が法律などをもって加担するのはナンセンスじゃないのか?」と思っているわけです。

お酒についていえば「お酒が自由なことは、おおまかにいって当然だよね」という立場に立つ人間であるわけです。

(※もっとも、その範疇の一部として起こっているだろう、アルコール依存症やら、それによって家族などの当人の周りにいる人までも苦しめることについて放置していいとかは思いません。あたりまえですが、そういうふうになるまえに社会的に予防策が講じられるべきだし、不幸にもそれでもそうなってしまった人や家族には、なにかしらのサポートがなされるべきだと思います。どのくらいの規模か詳しくは知りませんが、きいたところによるとお酒産業の業界団体が一定程度その向きでの働きをしてくれているようです。これこそ、クチだけ麗しい偽善的な社会貢献ではなく、実のある堅実な社会貢献の例だと僕は感銘を受けたところです。)

「苦しんでいる人がいるから、みんな楽しむべきではない」とかいう発想は、ナンセンスだと思います。

ふと学校で「みんな暑いんだから我慢しなさい」とか言われたことを思い出しましたが、未だに僕はその先生が発したセリフの理屈に納得がいっていません。

素直に「なるべく多くの人が楽しくすごせる方法」を考えるべきでしかないとしかおもえません。

もちろん、その方向での因果関係の吟味の結果「みんなで我慢するよりほかない」という結論に落ち着くのであれば、結論はまわりまわって同じところに着地することもないとはいえませんが、

「ある人の快」と「別の人の苦」の因果関係も検討もずに、ただ漫然と「苦しんでいる人の状況にあわせて、みんなで苦しもう」みたいな発想は「意味不明の奴隷的思考」だとしか僕には思えないわけです。

(※そういえば某有名フェミニスト大先生が「みんなで平等に貧しくなればいい」という趣旨のことを発言なさったという有名なお話がありますよね。まぁ、文脈的にいって完全に余談ですけどね…。)

良くするための工夫もなにもかも放棄したかのようなその態度は「絶対受動というべきナンセンスな奴隷根性」なのではないでしょうか?

もちろん社会規制の趣旨としてはそれなりに「それは他人にもその人自身にも害があるから禁止しているのだ」という理屈が用意されてはいるでしょうけど、

そこ決してテキトーにやっていいことではなくて、ゴリゴリに「その害というのは本当に、その快楽享受の社会的な禁圧を正当化するほどのものなのか?」ということの議論が尽くされてなければならない。

正真正銘の神様から下されたルール(命令)というならまだしも、

おなじ種族でしかない人間(ないし一部の人間集団の合議)からの命令で、同じ尊厳のあるはずの人間が「なんとなくの雰囲気的なテキトーな理由づけだけで自由を制限されてしまう」ことに僕はなんの正当性も見出せません。

もし「崇高さ」という伝統的な道徳の源泉のみから「社会的な正しさ」を見出す向きの人からは、そういう「わがまま≒自由」は「悪徳」とか「堕落」にしかみえないでしょうけど、

僕は「崇高さ≒人間を越えた超自然的存在への畏怖」を抜きにした倫理だって十分に成立すると思っています。

そこにおける道徳の源泉は「私もあなたも同じ人間じゃないか。あんたはまかりまちがえば私だったのかもしれない。」という「立場の交換可能性の発想」です。

その要素と通底するような発想は、ルソー先生の「一般意思」にも表れていると思うし、またロールズ先生の「無知のベール論」なんかまさにそれだと思うわけですけどね。

僕は「崇高さ」は基本的には各自が個人的に決定すればいいと思っています。

西洋の文脈での「崇高さ」の変遷は、①教会がその内容を独占⇒②宗教戦争を契機にして領域における領主が決定⇒③政教分離の普及で個人が勝手に決定(≒立憲主義の重要な要素の一部である内心の自由)

というふうに流れてきたんだと思います。そこから、あえてもう一歩を歩を進めるとしたら「崇高さをもたなくてもいい」というところにいくんだろうと思うわけです。

ただしそれは「倫理などいらない」というところまでいくことを許すものではない。

「神の存在を措定しない世界での倫理≒人間の尊厳の等価性ないし、個々の人間の状態の交換可能性」というところもないがしろにするような人は当然の道理として「社会における資格として同等のメンバーという前提を守れない人」なのであり、その意図が内心にとどまらず逸脱行為として現れた場合に限り「村八分の罰」を受ける十分な理由があることになるはずだと思います。

ようは「なにかしらの崇高さを一切、心の裡にをもたない人間≠規範意識が皆無な人間」だと思うわけです。

「規範意識が皆無」な文字通りの「傍若無人」な人間は、その意図が行為として発揮されてしまう限りで「社会から追い出される」という当然の道理が発動されるだけのことであって、

「崇高さ≒神の概念・信仰心」のみが「社会をささえる最基底のものである」というのはおそらく中世からの観念をひきずった勘違いなのだろうと僕は思うわけです。

というか、おそらく江戸時代とかの庶民は西洋的な「神」の観念はなかったんじゃないかと僕はかんぐりますね。

今の西洋にかぶれた日本人からは「他人様信仰」と揶揄されるその思考法は、実は一周まわって「神の概念抜きに、社会倫理をまっとうに機能させた世界の最先端の社会観念」だったとすらいえるかもしれない。

「崇高さ」という要素をとりさったところで「同じ人間である」というさらに最基底の「社会規範の原理」が残るだろうということです。

もしかしたら、僕らはこの現代というタイミングにおいて「近代をより完成品に近づけるべく、江戸の精神に学ぶということを求められている」のかもしれない。

なんなら過去の人類は「崇高さ」という原理に導かれて時に集団の外部の人間を「あいつらは人間ではない、外道か鬼畜である」などと言い募っておなじホモサピエンスに対して酷いことすらしてきたわけですよね?

それってのは日本というよりは、ヨーロッパという大半島やらアジア大陸などで顕著にみられた事象だとは思うわけですけどね。

そう考えると「崇高さ」よりも「結局のところ同じ人間だろ?」という原理の認識こそが、むしろ本来的な意味での「倫理の基底」にふさわしいものだとすら僕には思えてなりません。



「自由主義」の根本的なテーゼというのは、つまるところは洋の東西問わずに「お前だってただの人間だろうが、全部分かったみたいにえらそうに俺に指図するな」ってことに収れんせざるを得ないのではないでしょうか。

それが生き生きと表れているのが僕の見立てでは「落語に描かれた庶民の世界」であるとも思っていたりもするわけですけどね。

そして「共通の神というプレゼンス」が地球全体で広く崩壊している現代においては僕はそれは「社会において可能な限り貫徹されるべき原理」だとしか思えません。

 

(※もしかしたらイスラーム圏はそうではないかもしれないのですが、そこは僕の勉強不足でよく知りません。申し訳ありません。)

「私は麻薬がなくても、この現世という地獄に立派に耐えることができている。だからお前らも麻薬なんか使わずに耐えろ。」とかいうセリフを吐くのは、おそらくエリートたちとかがその中心だと思うわけですけど、
(※もしかするとエリートを準拠集団とする向きの庶民もそういうことをいうのかもしれませんが、彼らは僕からいわせればエリートに洗脳されてしまって自分の利益を自分できづづけていしまっている被害者だとも思うわけです。そのへんについては後述します。)


庶民である僕からいわせれば、まさに「あんた何様のつもりだ。あー、気色悪い。」という言葉につきますね。

彼らエリートはすでにしていろんなものに恵まれていて、たまたま麻薬を必要としない充足の中にいるだけなのであって、

それは「パンがないならケーキを」ということにまさに合致した物言いなわけです。


他のたとえでいうと、僕は幸いにも大病をしたことのない人間なのですが、大病をして病気そのものや、または薬の副作用から、耐えがたい苦しみを経験している人にたいして

 

「私は薬なんかにたよらなくてもこのように立派に生きている。だからあんたも薬なんかに頼らずに、現実逃避せずに、そのままの現実を頑張って生きろ」

とかいって放置するとしたらその人はサイコパスか、サディストかのどっちかだと思うので、僕はそんな物言いに全く共感できません。

自分はそれを経験したことないけど、大病などのために明らかに苦痛に顔をゆがめている人に対して、僕は「なんとか楽させてあげたい」としか思えません。

それは単純に「僕がもしそういう状態になったら、麻薬的なものを打ってでも痛みを緩和してもらいたいはずだ」という倫理の黄金律の発露としてそうならざるをえないわけです。

繰り返しになりますが、その黄金律と呼ばれるものの基底にあるのこそが「同じ人間じゃないか≒人間の尊厳の等価性≒人間のあり方の交換可能性」というものだと思うわけです。

「とにかく麻薬は悪いのだ」という発想は江戸でいえば「田沼のあとの松平の発想法」というべきものだと思います。

そして、以上の書き振りからすでに明らかでしょうけど、僕は基本的に「田沼支持派」なわけです。

庶民が楽しんだり、苦痛を回避したりすることのいったい何が悪いのでしょうか?

エリートを中心とした支配者側がそれを「悪い」と言い募るのであれば「害悪とその楽しみをつなぐ因果関係とやらを、明確にしめせ」と要求する筋合いが僕ら庶民には当然認められるはずです。

そういう意味で僕は「麻薬は悪い」とかいう雑すぎる物言いに強烈な不信感を持つことになるわけです。

その雑な物言いが「松平治世的なサディズムだな」と僕には映るわけです。

「麻薬は悪い」と言わずに、ちゃんと「麻薬の副作用が悪い」といいましょうよ。やや、めんどくさくて、まどろっこしいようですけど、この問題のある言葉の短縮を漫然と放置していいと僕は思えません。

また「副作用のない麻薬」という、おそらく人類の隠された悲願というものの道をふさぐという弊害をやらかしてはいけないと僕は思います。

今のところ僕は「副作用のない完璧な麻薬」のアプローチとして最も有望だろうとにらんでいるのは実は「ヴァーチャルリアリティ―がもたらす麻薬的体験」だと思っていたりもします。

というのは「遺伝子様」という「各自が抱える現世という世界のご主人様」からすると「意味を介さない快楽」というものは、目ざとく発見されてふさいでしまう、というメカニズムがかなり巧妙に行き届いてしまっているみたいなんですよね。

 

きっと、人類のこれまで来た道にも麻薬的なものとの遭遇が何回かあって、その落とし穴に巧妙に対処しえた遺伝子が僕らの各生命個体のご主人様であるってことなんでしょうけどね。

ともかく、直に神経に作用する快楽については遺伝子様という暴君の警備体制がめざとくてとにかくエグイ。主に「刺激への順応」などという機構を利用して、なんとか僕らの個体の幸福が維持されないように妨害をししかけてくる。

だからこそ、僕ら人間の幸福のために、遺伝子様という「暴君」を適切にあざむくためには、今ところ「物質による直接の作用」ではなく「遺伝様がご所望の体験をヴァーチャルに経験させることで遺伝子様のムチを欺く」というのが最も有望じゃないかと僕はみているってことなわけです。

ちょっと話は「向精神物質」から「ヴァーチャルリアリティ」へとは焦点がそれてしまいましたが、ともかく「副作用がないか、副作用を限りなく減らした形での向精神薬(≒完成度の高い麻薬)の開発」というものにむけての進歩もほうも決して止めるべきではないはずだと僕は思うわけです。

 

(※これは素人考えですが、麻薬のバリエーションをなるべく多くして、それを順繰りに服用するということで、なんとか遺伝子様による「刺激への順化という警備網」をかいくぐることはできないものかと思ったりもします。ようは「一つの向精神薬には依存しない」という戦略ですね。このアプローチが見込みあるものかは、専門家にきいてみないとわからないですけどね。)

さらにちょっと注釈を加えたいのですけど、この記事では主に「エリートたちが僕ら庶民を都合いい存在で居続けるための悪巧み」として「麻薬害悪論」を見立てたわけですが、

実際には日本庶民(僕もその一人です)の多くが「他人の快楽を強烈にねたむ」という心性に毒されているのかもしれないとも思っています。

それを「日本らしい心性」であり「日本の民度の低さ、後進性」として批判的に捉える向きの人も多いようですが、僕はかならずしもそれは「ストレートに伝統的な日本的心性にこびりついたものの発露」だとは思えません。

むしろ、僕はその心性は日本が「西洋列強」に食うか食われるかという異常なプレッシャーにさらされた時代に結果的に完成してしまった「日本総軍隊組織」が主に効いてしまった結果だと思うわけです。

 

ある意味、その成立のために最後の決め手となったのは「西洋発の近代の呪い」のほうだったんじゃないか?

だからこそ、さっきのように「日本はまずもって江戸の精神に戻る必要がある」というようなこともいうわけです。

江戸時代の江戸っ子だって、人間ですから「嫉妬心」はそれなりに発揮していたでしょう。なので、以上の「回帰」が現出できたからといて、日本社会から嫉妬心が社会現象としてなくなることはないとは思います。

ですが、今の日本社会の異常な嫉妬心(≒他者をねたむ心)は単に「稲作由来の同調圧力」に支えられているというよりは、それを踏み台にし、かつ癒着してそれを倍加させたところの「近代の総力戦由来の国民総軍隊意識」のほうに主にその元凶があるように思います。

まずはその社会大の日本の無意識を直さないといけないと思います。

おそらくまだ日本人の深層意識において戦争は終わっていない。そのことについての一つの証左として「あの戦争をまともに清算もせずに、ただ過去の黒い歴史として懸命に蓋をしようとしているだけ」というところにも表れているかと思います。

 

一部の現代左派(≒進歩主義とか自認して自惚れている人達)がしょっちゅうその「闇」というべきものを、当時の時代状況なども捨象しつつ、これみよがしに誇大的かつセンセーショナルに社会に提示しては、「自分たちの主張を押し通す武器」にもしているわけですが、それもそれでナンセンスだと思います。

 

ともかく、僕らは先の戦争はまともに区切りをつけられてはいないわけで、経済という戦場を変えた形での「国民総力戦」という見えざるドグマの影響のもとにいまだに社会が運営されてしまっている。

(※本当にきっぱりと先の戦争に区切りをつけられるのかも、問題とされるべきかとは思いますが、さすがに今の日本は、そこに冷静に向き合う努力をないがしろにしすぎだと思えてなりません。)

まずはいまだに尾を引く「国民総力戦というメンタリティ」を自覚してそれを僕ら日本庶民各自がそこから脱していくことが必要だと思います。それによって僕ら庶民が知らずに巻き込まれている「社会大の病的な嫉妬心」はきっとかなりときほぐされてくることだと思うわけです。

もしかしたら、それが達成できても、なお「稲作以来の同調圧力」というさらに基底的な要因のために、日本人は他の国の国民よりも「社会的に嫉妬深い」ままなのかもしれませんが、

僕の考えではさすがに「今ほど病的に嫉妬深い社会」が続くことにはならないんじゃないかと思うわけです。

「稲作社会以来の同調圧力という病巣」と「国家総力戦以降の総力戦的メンタリティの病巣」は分けて考えないとおかしなことになるんじゃないでしょうか。ごっちゃにすることが僕ら庶民にとっていいことだとも論理的に適切なことだとも思えません。

 

ともかくさすがに「国家総力戦以降の観念」というものは弊害も大きいしナンセンスだとも思うので、切り離されるべきだと思うわけです。

もう日本人は先の戦争で完成してしまった総力戦の精神を引きずるのをおわりにして、江戸庶民くらいにはおおらかで自由な庶民になっていいはずだと思うわけです。

なんだか、文の構成があまり整理がついてなくて、まとまりが悪いようですが、

 

とりあえず、言いたいことがだいたい言えたようなので、今日はこのへんで。