10月4日は誕生日で、32歳になりました。
この時期の北海道は、ボストンより暖かい。
今年も、大勢の友達と、そして今年は優しい彼氏が祝ってくれました。
思い起こせば、サプライズパーティーというのはあんまり経験がなくて、色々と計画してくれた友達に囲まれて、「ああ、愛されてるなあ。」と実感しました。
どこにいても、どんな状況でも、そうやって誕生日を祝ってくれるひとがいるっていうのは、とても幸せなことだなあ、と思います。

今日は朝、外にでてみると、秋晴れ。
上天気。
制服は今週まで夏服で、半そではこれで今年は着納めです。
冷たいけれど、すごく清々しい風が肌にあたるのを感じて、突然思い出すのは、あの夏。
29歳、ボストン最後の夏。

あの時、自分は、ものすごく難しい環境と現実に向き合っていて、死ぬことばかり考えていた気がします。
その前に決めていた日本への永久帰国に、それこそ藁をも掴む思いで、ただそれだけを救いとして、区切りとして、その点までを待ちわびていて、そこまでなんとかやり過ごせば、大げさだけど生きながらえるような気がしてました。
そんなどうしようもない毎日の中で、突然、彼と出会いました。
今考えると、あのとき自分がした一つ一つの決断は、決して正しくはなかったような気がします。
ただ、12年間のアメリカ生活が有終であるように。
その見たくも考えたくもない現実から目を逸らすために。
自分は彼の優しい手をとって、全てから逃れようと決めました。
ふたりで、いろんなことをしました。
夢のような夏でした。
朝は彼の朝食を食べ、彼の家の前に広がるビーチを散歩しました。
夜は海の見えるレストランで、ピザを食べました。
酔っぱらって、水筒にウォッカとジュースを混ぜて、ビーチで音楽をかけながら、笑ったり踊ったりしました。
ボストンや、近郊でやる花火大会も行って、彼の大きな手と長い腕に抱かれて、いくつもの花火を見ました。
泊まった次の日自分の仕事がある日は、車でちかくの駅まで送ってくれる間に、広がる、海岸。
きらきらきらきらと朝日が跳ね返る、あの景色。
あの夏は、いつも海がありました。
ふたりで行った、フロリダ旅行。
NYで会った友人が、ものすごく素敵な豪邸に住んでいて、そこに泊まることにしました。
真夏のフロリダは、早朝はまだちょっと涼しくて、これからものすごく暑くなるその前の静けさというか、もしくは「なにかがはじまる」というわくわくしたかんじが冷たい風に交じってました。
自転車で大きな橋を超えると、そこには驚くくらい青く透明の水が広がっていて。
そこで始まるなにか大きな冒険の準備運動のような、あの朝のつめたさと静けさ。
同じベッドから抜け出しているのに、お互い自分のコーヒーを淹れてから、「おはよう。」と言葉を交わしてプールサイドのテーブルで待ち合わせる、あの朝。
言葉少なく、ただ、あの空気を楽しんで、気が向いたらプールに飛び込む。
そのときのあの、水と、虫と、鳥と、それからたまに外を走る車の音。

それでもやっぱり、自分はあのとき囲まれていたどうしようもない環境と現実に打ち勝つことはできませんでした。
強い力に引かれるように、その悪い渦に戻されていって。
彼にもそれは充分すぎるほどわかっていて。
すべてが悪循環で、結局、彼は自分がアメリカ生活最後に迎えた30歳の誕生日には、いてくれませんでした。
「その日をただ、待つことはできなかった。終わりが見えているということは、ただ辛かった。ただ、今でも恋しく思っている。」
と、ぶつりと切れるように消えた彼と再会したバーで告白されたとき、自分は泣きました。
あまりにも虚を突かれすぎて、「なくかもしれない」と思う間もなく泣いたのは、あれが初めてだったような気がします。
そしてあのとき泣いたことで、自分も、彼も、救われたような気がします。

季節は違うけれど、あの夏のことを、急に襲われるように思い出した今朝。
あのときのフロリダの朝は、今の朝につながってるような思いにかられて。
多分、誕生日を迎えるごとに、あのアメリカで過ごした30歳の誕生日を思い出すんだろうなと思います。
それは、年を得るごとに、すこしずつかたちを変えながら。
あの30歳の誕生日を迎えたから、今、自分は北海道で生きていて、やさしい友人とあのときとは違うやさしい男と一緒に毎日を過ごしていられるんだろうなと。
また、この32歳というあたらしい一年を、いつかこういう風に思い出せる、そんな一年になればいいなと心から思います。
妹の友達が、怒っているという。
妹が自分のブログで、友達の恋愛を馬鹿にしたのだから、まあ怒るのは当然といっちゃあ当然なんだけど。
彼女はそのブログを読んで相当腹が立ったらしく、長文のコメントを感情のままにブログに残した。
「ねえ、こわいでしょー。」
と、妹は自分に相談してきたわけだが。
その彼女がブログに残したコメントの意味が最初よくわからなかったんだけど、後日ゆっくりと読み返してみたら、なんとなく彼女が言いたいことはわかって、なんか頬を思い切り張ってやりたい衝動に駆られた。
彼女は多分、恋愛を勘違いしている。

話し自体はよくある話しで、彼女はたった数回会ったある男に恋をしていて、そのあとデートに誘ってみるも、のらりくらりとはぐらかされ、その後一度も会っていないのに、長い間片思いを募らせているらしい。
それを「しょーもない恋愛」とばっさり切り捨てた妹も妹だけれど、それに腹を立てた彼女の言い分はこうだ。

彼を信じている。
でも、信じてるのは、「彼が私のことを好きかもしれない」ということではなくて、「彼が私に会いたいと言ってくれた」ことだ。
じゃあなぜ彼は実際に会ってくれないのかというと、彼はそれを実際に行動に移すほど会いたいわけではないと解釈している。
ただ、彼は本当にちょっとは会いたいと思ってくれている。
その「会いたい」という言葉の裏を勘繰ろうとはしない。
「もしかして好きかも」だとか、「会いたいって言ってくれたのにどうして会ってくれないんだろう」とか「こりゃあ脈なしだわ」とかは考えず、ただ彼がちょっとでも会いたいと言ってくれたこと。
会いたいという思いがすこしでも彼の中にあること。
そのことを信じ、彼のことを好きでいられる。

自分は個人的には「好きになってしまったのは仕方がない」で許されるのは20代前半までであると、思っている。
20代後半は、実る恋愛と不毛なそれを見分けるのを学ぶ為に費やすべきだ。
彼女は、なぜ恋愛をするのかという根本的な問題を考えるのを、放棄してしまっている。
あまりにも長い時間、思い募らせてしまい、いろんなことに盲目になってしまっている。
彼の中に会いたいという気持ちが実際にあろうとなかろうと、実際に会えないという現実が全てを告げていることから目をそらしてしまっている。

なぜ恋愛をするのか。
それは見返りがあるからだ。
なぜ人を好きになるのか。
それは好きになられることを望んでいるからだ。
誰かを好きになったとき、そこに溢れるのはそのひとと一緒にいたいという願望だ。
それはとても強欲で我儘な欲求。
それが、いつか実った時、それは「相手が自分のことを想ってくれている」、「好きな人と一緒にいられる」、「彼に抱かれることが許される」等の見返りがある。
その甘い見返りを、期待して、夢見て、欲している。
一生絶対にその人と一緒になれることはないですよ、と予めわかっているのならば、そのひとのことを好きになることなんて、ない。
絶対に、ない。
もしそういう経験があるというなら、それは一番最初に好きになった時、「もしかしたら」、「万が一でも」という甘えがそこにあったにしか過ぎない。
「実ることなんて最初から期待していなかった」、「見返りなんて期待していない」なんていうのは後からの言い訳で、最初は、僅かでも甘い期待がそこにあったはずなのだ。
夢見てしまったのだ。
その人と、一緒にいる自分を。
抱かれる自分を。
手をつなぐ自分を。
好きだと言ってもらえる自分を。
ご飯を作ってあげている自分を。
一緒に眠る自分を。
ドライブに出かける自分を。
しっかりと、思い描いて、そうしてその人に恋に落ちたはずなのだ。

彼女は、既に、そのことを忘れてしまっている。
どうして彼のことを好きになったのか、忘れてしまっている。
ただ、ことばを信じているだけで満足できる恋愛なんて、ない。
そのことばに縋り付いている自分から目をそらしてしまっている。
相手が考えていることを計らないということは、自分勝手になることと同義だと、彼女は気付いていない。
「それでいいんだ」と言い聞かせ、完結してしまっている。
見返りのない、実らない、そんな恋愛は存在しないと。
ただ想っているだけでいい、そんな恋愛は迷惑であると。
「ただ信じている」はどこかに見返りを期待していて、相手の重荷になっていると、そこまで考えは至っていない。

「見返りはいらない恋愛である」と思い込むほどに深みにはまる。
ただただ、そこの迷路に入り込み、彼女は迷い続ける。
どうして迷っているのかさえも見失う。
そうして、いつか、気付くのだろうか、その恋愛に出口はないと。
迷路に入り込んだことでさえも、事実を認めたくなかった自分の決断であったのだと。