ジャーナリズムとアイデンティティー | worldendのブログ

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インドアでロウな生活

珍しく難しいタイトルをつけてみました。

私は小説が好きで、よく読んでいます。

こちらにも10冊ほど文庫本を持ち込み、

あとは電子書籍をポータブル端末に入れて、持ってきました。

好きな本はいくつもあります。

とりわけ好きなのは司馬遼太郎さんの著作です。

私は、好きな本は何度も読むので、「竜馬がゆく」などは、

ほぼ諳んじています。

その中に、当時の志士達をジャーナリストと重ねた描写があります。

ジャーナリスト、ジャーナリズムを詳しく知らないので、

その意味を、情報を仕入れて、それを伝えるヒト達のことかなと

漠然と考えていました。

最近、他の本を読んでいて感じたことがあります。

その本は、司馬さんのようなプロの書き手の本ではありません。

御存知の方も多いかもしれませんが、「建築批評」という

東京藝術大学の建築専攻修士課程学生が書き上げ、編集したものです。

私は、この本を5年ほど前に、高校の同級生から頂きました。

彼女も、同学生の一員として著作、編集を担当しておりました。

彼女の著作も含めて、一気に読み切りました。

そして、他のバージョンも読みたくなり、購入しました。

私は、当初、彼女の作品は、故郷について書かれていたため、

私にとっても特別な郷愁や想いを喚起するのだと思っていました。

それが、この作品の魅力を高めているのだと。

たしかにその一面はあると思います。

しかし、他の作品についても、

つまり、東京や北海道、フランス、イタリア、場所を問わず、

また建築物の性質を問わず、胸に強くこみ上げてくるものを感じました。

若き彼らは、考えます。

自分がその建築に惹かれたのか、

この有名な建築がどのようにできたのかを考えます。

そして調べます。

実際に足を運んで、建築に触れ、なんとか紐解こうと努力します。

そして、その答えを、あるいは答えようと模索した過程を、

想いを込めた文章に綴っていきます。

私が感激するのは、その文章に嫌悪を含めた愛情を感じるからです。

自分の中の答えを模索する過程で、自分のルーツ、

自分にとっての建築家とはどういうものか、

考えている姿が目に浮かびます。

調べた比較的客観的な事柄と、自分の主観的な感情、

その協調とか葛藤とかが短い文章に綴られている気がするのです。

御存知のように、司馬さんは、とにかく良く調べ、勉強し、

実際に足を運んで歴史を紐解こうとされていました。

その客観的な事柄を羅列すると、教科書のような

無味乾燥なものができます。

しかし、司馬さんは、その文章に、

自分はこう考えるという力強い想いを宣言します。

正義とは、生きるとは、宗教とは、

その様々な事柄に自分なりの答えを導き出しています。

若き彼らも同様に、ときに主観的ともとれる形で表現を試みます。

だから面白いのだと私は考えます。

自分という主観と、徹底的に調べたいわば客観。

いわばというのは、自分がそこに関わる以上、

必ず主観がフィルターするからです。

それが正しいとか、間違っているとか、実は誰も言えないはずです。

絶対になどと言い切れるものは、ごくわずかしかありません。

ほぼすべてのことは、相対的に定義されています。

正義の概念でさえ、相対的なものであることを我々は知っています。

主観的なものは、多くの場合、相対化が可能です。

その基準は自分です。

話が脱線しました。

彼らの文章に心惹かれるのは、そこに客観的なものを真摯に追う姿勢、背景を探ろうとする姿勢(私はジャーナリズムだと思います)と、それを自分というフィルターを通して、形にしようという意思(アイデンティティーと表現したいと思います)が顕れているからだと思うのです。

若き建築家たちはどういう道を進んでいるのでしょうか。

今も続く「建築批評」という素敵な作品の著者達の

今後の活躍を信じてやみません。