二◯一九年の小暑の頃、晴れて私は精神科の救急病棟から退院し、一応は元の生活に戻られたのでございます。しかしながら、二十七(にじゅうしち)のその私には、心に大きな念があったのでございます。ひとまず、私の病状は一見、普通の人と変わらぬまで落ちついてはいたのでございますが、まだ自由に世を歩き回るまでには至らない状態でございました。散らかっていた私の寝室を、母が片付けたのでございましょうが、そのこじんまりとした寝室のベッドで、まだ消えぬ病状にくたびれながらの私は、遥か遠く物心のついた幼き頃から今日(こんにち)までのこれまでの一生の私の人生についての回想の旅に出るのでございます。夏なのにもかかわらず、ひんやりとした人生の背景の中、病状の幻覚の中、少しずつ、そして静かに、私の想念は回想の旅へと、心痛と共に出るのでございました。

 さて、何時からの回想だったかは定かではございませんが、その回想のほとんどが、反省と共に、深い謝罪の心だったのでございます。それは、これ程までに、他者の心を傷つけ、それに気がつかず過ごした私は、大きな後悔の念にうちひしがれたのでございます。病状もそうではございますが、共に頭に写し出される回想での深い罪の念の現れに、ベッドの上で、もだえ苦しむ日々を過ごしたのでございます。しかしながら、それは不思議な物で、だんだんと回想に入る事が心地良くなるのだから、人生とは面白い物でございます。朝目覚め、朝食を摂り、また直ぐにベッドに入り、回想にて、過去の私の人生の世界に入り込もうと、自らするようになる物だから、幼い頃の私のように、四十度(しじゅうど)の熱が出た風邪の時も、じっと出来ず、長引いたようにはならず、日々を追う事に、重病にもかかわらず、少しずつ快方が見えたのだから、とても喜ばしい事であったと思うのでございます。

 兎角(とかく)、私が気に病んだのは、人様に対して攻撃をしてしまった時の事でございます。そして、自らの行いの悪さに、腹は一切立たず、ひたすらに落胆(らくたん)したのでございます。しかしながら、その落胆とは裏腹に、私の心は強く生きよと熱くなったのが不思議な事でございます。そして、落胆の度に、心は、もっと強く「生きよ」と迫るので、この回想は約一年もの間続いたのでございます。これ程、落胆をくり返しているのでございますから、普通なら、私の心は死んだ筈でございましょう。根拠成る自信は全て失った筈なのに、内の心から無常の生の力に漲(みなぎ)るものでございますから、私はその心に生を預け、ひたすらに回想の中で、反省をくり返しのでございます。そして、その心は回想の何時の時も、それ以外の時も、この病の苦しみの中、病人に理解を示さない者に虐められた時にも、その心は私を放っておく事は一度たりとも無かったのでございます。そして、私の事情を察してでございましょうが、世の中の、特にご年配の方々の優しさに、溢れる程の感謝の気持ちが止まらなかった事を、二◯二四年の今にも心は思い出させるのでございます。席を譲って頂いた時には、大変に救われた思いがしたのでございます。病状だけでなく、体力的にも立っているのが辛かった時期でございましたので、大変な感謝の気持ちでいっぱいでございます。

 それでは、回想の世界、つまり、私の過去の人生の世界へと話を移らせてございましょう。

 

 

 

  虐め仲間に入る

 小学生の頃、私の通う小学校で虐めが起きたのでございます。私は止めなければならなかったのに、一緒になって仲間に入ったのでございます。虐め仲間に入った理由は、私が虐めを止めると、私自身が虐めの標的になってしまうでございましょう恐怖からと、あと半分は、何となく虐め仲間に入る事が面白く感じられたからでございます。それ以降、虐め仲間に入った事は無かったのではございますが、私は小学生のこの頃を回想し、私自身のしたとてつもなく情けなく残酷な行為に大変に落胆をしたのでございます。虐めを受けたら、どれ程困る事か、痛い程知っている二十七の私は、山から谷へところげ落ちるように落胆したのでございます。

 

 

 

  身勝手な意見文

 次に大きく回想されたのが、私が中学生の頃に所属していた野球部の顧問の先生への身勝手な意見文でございましょう。野球の練習をサボる人達が試合に出るのは可笑しいとの意図の意見文を書いたのでございます。しかしながら、サボるのは本人の責任で行っているのでございまして、サボっている本人も実力を有しているならば、試合に出る権利はあるのでございます。この身勝手な私自身の考えを野球部の顧問に出してしまった事には、人として大変な恥な行為でございまして、二十七の私はベッドの上で赤面をしたのでございます。中学生以降、どんなに頼まれても、身勝手な意見は言ったことはないのでございますが、これも一つの私の人生の中での大変な後悔なのでございます。

 

 

 

  安藤の歌は暴力

 そして、最後に大きかった後悔は、私自身が大学生の時に大人に成り切れなかった事でございます。私は国立音楽大学(くにたちおんがくだいがく)に入学してから、ひたすらに美しい歌を研究し、勉強仲間と頑張っていたのでございます。しかしながら、大学の先生の方々や学生の方々からは、大変なご批判を頂いたのでございます。「ほとんどの学生はタキシードとドレスを着て、記念写真を撮りたいだけなのでございますから、一所懸命歌わないでほしいのでございます。」「音大等ではオペラは行っていないので、残念ではございますが、オペラを歌いたい方々は、イタリアやドイツへ行ってほしいのでございます。」「音大は勉強する場所ではないのでございます。」等とのご批判を頂いたのでございます。当時の私は立腹したのでございますが、それは大人に成れていない証拠なのでございます。人々は、十人十色(じゅうにんといろ)、皆価値観が異なるのは当然なのでございます。その気持ちを理解してあげられず、人々のプライドを傷つけてしまった事を後悔したのでございます。

 

 

 

  では逆に、安藤光が頑張られた事は何

 しかしながら、そうして回想している内に、罪ではなく、私自身が頑張られた事は何でございましょう。そう頭に浮かぶのでございます。過去の私が頑張られた事は「仕事の責任を命をかけて果たした事。」「女性の方々を命をかけて愛した事。」「歌や音楽、藝術を美学出来る所まで勉強した事。」の三つが大きく思い出されたのでございます。

 

 

 

  具体的に行動に移す機会を得た

 そうこうしている内に、実際に私の回想が役立つ機会を得たのでございます。しかしながら、それはとても喜ぶ事が出来る物ではございません。それは「デイサービス」でございます。精神病が重たいので、デイサービスに通う事を勧められたので、通う事になったのでございます。しかしながら、そこは、私にはとても病院の施設とは思えなかったのでございます。病を治す場ではない事は理解を十分に致した上でございまして、私がどんな虐めを受けても、どんな酷い事をおっしゃられても、患者様方の教育をさせて頂くと、強く心に決めたのでございます。

 私の通ったデイサービスは「いじめ」「けんか」「精神年齢が子供」という酷い状態でございました。患者様方が人として差別を受けるのは、精神障がい者であるからではございません。人として未熟だからでございます。私もこの度精神障がい者になったのでございますが、その事による差別行為は一度たりとも、受けた事がないのでございます。過去に私自身の成長のために勉強した「心理学」を、もう一度復習し、「大人にしてさしあげたいのでございます。」と教育をしたのでございました。患者様方は、私がデイサービスを去る前に、私を前に、感動の言葉を残したのでございました。「私はコーヒーを買った時に、店員様が笑顔だと嬉しく感じるのでございます。」「僕はコーヒーを買った時に、いつもより量が沢山入っていると嬉しく感じるのでございます。」との嬉しいお二方の会話でございます。このように、お互いを理解し、尊重し、自身のことを愛おしく思うことが出来るようになれば、十分な大人でございまして、もう差別を受ける事は無いと確信したのでございます。

 

 

 

  一方で頑張った方は

 一方で回想にて、過去の私が頑張られたことについても、徹底的に努力を致したのでございました。まず、自身の事をインターネットにてご紹介させて頂いたのでございます。私の過去の業績をご覧になり、追いかけて入らしてくれた女性の方々をすぐに調べて、お声をおかけさせて頂く運びになったのでございます。働く女性が多いので、後は結果待ちでございます。歌は体調と相談の上で、しっかり練習させて頂く運びになったのでございます。

 

 

 

  全てをやり終え、私はこの人生に対して全く後悔が無いという境地に至ったのでございます。