「2021年にやりたいこと」のひとつは読書だった。
なじみの本屋も「丸善」以外に「誠品生活」をはじめ、
以前から行ってみたかった書店巡り(もはや「詣で」に近い)をして
本屋の傾向なんかも知ることができ、徐々に行きつけの本屋が出来てきているのがうれしい。
ただ、買ったはいいけれど、まだ読了していない本たちもある。
「戦争は女の顔をしていない」 スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 著
「フォルモサに咲く花」 陳耀昌 著
などなど・・・
カウチに寝そべりながら読んではいけない本たちなのだよ。
もちろん、どの本にも敬意を払って読んではいるけれど、
突然、普段の生活を壊され、生か死かの選択をつきつけられる
本物の話を読むには特別な姿勢で読まなくてはならない気がするのよ。
ヴァルター・ベンヤミンが言うところの「死者と共に生きている」歴史を物語にしているわけだから。
だが、カウチに横になって読むような作品に対して、
下記の注意事項があった場合
「史実を参考にして作品を作りました」 これには2種類の意味が生じると感じている。
①「小道具」としての史実を運用すること・・・「主役」というオリジナル性を引き立てるための「史実」の使い方だ。
例)2008年 リーマンショックが起きた。
私が入社したとき、毎日同じような経済ニュースが報道されていた。
②史実の運用・・・存在した人物・事柄を「設定」として扱う。
例)2008年 リーマンショックが起きた。
時のアメリカ大統領 ジョージ・W・ブッシュはTroubled Asset Relief Programに署名し、金銭支援をした。
②で捕捉だが、例として出したのは、多くの人が知っている事実を扱っているため、たいした問題にはならない。
なぜならば、「皆が知っている」ことを大前提にしているからだ。
大統領の活動だからね。
証拠もある。
「大前提」とは現時点でも知らなくても、あとで調べれば、多くの資料を見出すことが出来るとも言い換えられる。
だが、これが、一般市民の個人的な活動であったらどうだろうか。
本人さえも、事実を誤認してしまいそうな「記憶」はどこまで史実となり得ようか。
つまり、「昨日何食べた?」「何時に寝た?起きた?」「何の放送を見た?」ということは
いとも簡単に「忘却」という名で「記憶」の改ざんが行えてしまう。
だが、あいまいな個人の記憶とは違い、「鮮明な個人の記憶」というのもある。
事故・事件といったトラウマとして脳に刷り込まれてしまう記憶だ。
起きた事実よりむしろ脳内で再生されるフラッシュバックは強烈で多々苦しめられることもある。
そういったプライベートな「史実」を参考資料として利用をした
「史実を参考にして作品を作りました」というのは、
1930年代ごろ、ヴァルター・ベンヤミンが「歴史哲学」で
「歴史の概念」について「抑圧されて過去のための闘い」を問うた
当時のファシズムの圧力とは別の意味・力・方法で、
死者が生きていた証である史実を都合よく「書き換え」していないだろうか。
「物語」というエンターテイメントを探求するために、
作家も出版関係者も悪気があるわけではなく
「史実を参考にして作品を作りました」と種明かしをしているので、
一見、先に謝罪をしているように受け取られてしまうかもしれないが、
文学界にさえも、「新自由主義」の要素が謳われていくのであれば、
その対抗措置として、我々読み手は
マイケル・サンデルが説く、弱々しげではあるが「社会正義」を貫くしかないのだろうか。
さて、本題である。
Avenge と Revenge のちがい。
前者は「他動詞」後者は「名詞」である。
意味は 復讐・報復・仇討ち など
「やられたらやり返す」という「ハンムラビ法典」式の正義の執行だが、
土台(立っている場所)が平等でない限り、その刃は向けられないシステムになっているのだ。
だが、現代はどうだろうか?
皆が同じ土台に乗っていて平等といえるだろうか?
その場合、Avenge と Revenge は正義の執行になりえず、野蛮な迷惑行為にしかなりえない。
「社会正義」に気づけなければ、一部では「英雄行為」と判断する。
そのような判断をする彼らは、安全な場所、すなわち俯瞰で観ているつもりかもしれないが、
本来の不平等性に目を背けた視点で言っているだけでもある。