芸術と体現をする芸術家は社会に必要です。
もし、不要とかいう人がいても私は言い張るだろう。
どんなに不幸せな時代にだって、
祭事があれば、笛や太鼓、歌に踊りはあった。
戦争時だって、「軍楽隊」はあった。
冷戦時の「壁の向こう」にだって、すばらしいバレエ、オーケストラはあった。
(むしろ、壁のこちら側が学んだくらいだ。)
だから、声高に言うさ、「芸術家は社会に必要!!」
とは言えども、
今日、食べるごはんと寝る場所がなければ、芸術どころではないのは事実なのだ。
それが、今。
まさに今、起きている危機だ。
空襲警報も鳴ってはいない時代なのに。。。
普通に暮らしていても明日が不安なくらいだ。
(表の顔は平然としていてもね。)
芸術家として暮らしていけるか、もっと考えるだろう。
ふと、「芸術家」としての道を選ばなかった人の話を思い出した。
学生時代の吹奏楽部にトランぺッターとして、素晴らしい音を出していた先輩がいた。
日本人トランぺッターで、私はこの人(学生だけれど)を超えた人を知らない。
そのくらい、今でも耳に残っているうまさだった。
練習も人一倍早く来て、ルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」を吹いていた。
この曲はトランペット吹きというのは、昔は決められた号令としての音を鳴らすのだけが仕事だったから
仕事がお休みの時は自由気ままに、自分の音を表現して吹いている姿を曲にしているそうだ。
先輩は誰よりも熱心に練習をしているし、きっと、将来は音楽家になるだろうなと勝手に思っていた。
だが、その人から信じられない言葉を聞いたのだ。
「卒業したら、進学もしないし、働くよ。家族のためにね。」
驚いたし、ショックだった。
同じ年ごろで、変わらないというのに、夢も語らず、もう「働く」ということを
平然と決めているその人に。
当時の私は理解ができずに、ただ単に、「気の毒だ。」としか思えなかった。
先輩の決心がわかるようになったのは、十年以上もたち、社会にでて働き、
毎日、何かしらの決断が必要に迫られるようになってからだった。
「あなたにとって、なにが大事?」
おそらく、先輩には家族が大事だったのだ。
だから、トランペットをあきらめ、社会に出て働くことを決めたのだろう。
限られた学生生活の間に、精一杯、吹きたいトランペットを演奏していたのだ。
だから、私は先輩の演奏を超えるトランぺッターを見つけられないのかもしれない。
一吹き、一吹きの覚悟が違うわけだから。
そう、芸術だろうと、日々の仕事だろうと、自分が一番何を大事にしているか
その覚悟で社会に臨んで、生きることが大切だと思うのだ。
平安な時代においても、混乱している時代でも、
いつだって、自分にとって大事なことを決心しないといけないのは、同じ重さかもしれない。
どのような生き方をするかが問われているのだ。
今日の一言は、偉人・超人ピタゴラス先生もそう、おっしゃってるということで。
「音楽は魂を調律する」