映画「ティファニーで朝食を」は全部を鑑賞しても、そうでなくとも、冒頭の一場面はご存知だろう。

 

朝帰りをしたオードリー・ヘップバーンが、

ティファニー店の前でコーヒーとクロワッサン(かな?)を腹ごしらえしている。

彼女の朝食は今食べているものではない。

店のショーウィンドーを眺めているというのが朝食。

 

歌も有名だ。

 

Daniel Hope氏とChristoph Israel氏の素晴らしい演奏を

嵐の前の晩に聞いている。

「MoonRiver」

 

 

記憶は、自動的に呼び起こされる。

 

正直、映画は映画。小説は小説。

別物の「ティファニーで朝食を」と思っている。

うたがう勿れ。

どちらも良いけれど、イコールではないということ。

 

映画のイメージでカポーティ原作の「ティファニーで朝食を」読むと厚みが全く違うことに気がつくだろう。

 

皮肉たっぷりで下品なところだって見せ付ける場合もある。

けれど、あの厳しいNYという街を生きぬく登場人物たちが面白いのだ。

必死に生きている、希望にすがって。

 

だから、数が多くない彼の作品をもっと読みたくなる。

短編は全部読んだ。

満足だ。

でも、もう少し長編で満たしたい。

 

すると「冷血」がおすすめにあがる。

たしかに、オススメだ。

文句はない。

世界的に有名なクライム・ノンフィクションだ。

 

だが、小説家がノンフィクションを書くということは、

彼の「大いなる才能」は活かされることはないのだろうか?

 

いや、それは間違い。

 

タイトルが「冷血」というのに、

沸き立つ興奮はただの取材ライターが書いた作品とは

格が異なって感じられる。

 

あぁ、また次が読みたい。

彼はどんどん進化していく。

ついにカポーティ最後の作品にたどり着いた。

 

「叶えられた祈り」

訳者も大好きな川本三郎氏で、ラッキーだと喜ぶのも束の間。

 

カポーティ自身にとっても

「冷血」の先は踏み込むことは、許されない領域だった。

 

「叶えられた祈り」を読みつづけていくうちに、

何がどうなっているのか、不安がよぎる。

あの狂暴な熱狂をもたらしたカポーティは、いずこ?

 

そして呪文のような聖テレサの言葉。

 

「叶えられなかった祈りより、

 叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流される」 

           本文訳:川本三郎(新潮文庫版)

 

ここで、ちょうどよい映画が一本ある。

「カポーティ」(2005)

フィリップ・シーモア・ホフマンが演じている。

 

 

「冷血」を書き、発表。

絶大な人気と、評価を得る一方、

彼が想いを懸けたとは言え、

売れる小説の「素材」でもあった殺人犯は死刑となり、

彼の中から、何かが欠けている感覚がつきまとう。

 

その最中、書きはじめるのが「叶えられた祈り」なのだ。

 

皮肉は最大限の嫌悪をまぶした悪口まで昇華されているため「週刊誌ネタ」か「安っぽい告白物」に、一見とれるが、

先ほどの映画「カポーティ」を観た後、

「叶えられた祈り」を読むと、彼の叫びが皮肉と悪口の中から聞こえてくる。

 

もし、どうしてもカポーティのすべての本を読みたくなってしまったら、「叶えられた祈り」で行き止まりとなる。

だが、彼の声をよく聞いてあげてほしい。

ともすると、「まだ汚れていない怪獣」は「ティファニーで朝食を」のパラレルワールドだと透けて見えるかもしれない。

 

7つの作品のうち、まだ3編しかないなんて、残念すぎる。

特に、「脳に受けた重度の損傷」というタイトルしか無い幻だが、どうして、この話をすぐに書かなかったのか。

わたしは残念でしかたない。

 

なぜなら、「冷血」を書いたカポーティの懺悔と

先に逝った例の彼のお気に入りの死刑囚が、

なんと彼に語りかけているのかを教えて欲しかったから。