ダジャレでスタートした利用スタッフFです。
ダジャレってなんで駄洒落って言うと思いますか?
駄=つまらない、ありきたりな + 洒落。
本人はお洒落なつもりでも、実際は凡作ということです。
人は男女問わず中高年になると、困った特性を帯びるようで、
医院の待合で「今日は〇△さん来てないけど病気かな?」とか
テキスト初級編の1ページめに載るような、有史以来何億回と言われてきた「笑い話」をドヤ顔で
〈今、面白いこと言ってるで、私〉
と心の声を最大音量にして言わずにはおれない症状が遅かれ早かれ表れてしまいます。
こういった初級編あたりで留まっているのにもかかわらず、自分は面白いと信じてしまえる症状と、
俳句、短歌を嗜めば、あるいは絵本を読めば感性豊かに育つと信じてしまう症状との病根は同じです。
初歩の初歩しか知らないのに、あるいは出来ないのに、自分は「そこいらの芸人よりか面白い」←実際にこのフレーズを何人の口から聴いたことか(´・ω・`)
と思えてしまうのは、芸人さんが日々舞台で披露されている技術と工夫を知らないから。
五七五、五七五七七と季語をかろうじて知識に持っているだけの人も同じです。彼もまた人の心を震わせる表現を生み出そうと苦しんだことがないのにもかかわらず、さっき思いついた斬新(自賛)な単語を既存のフォーマットに押し込むことだけしかやってないのです。
話をちょっと戻します。
単純な駄洒落とはひとつの単語に、例を挙げるまでもなく、ふたつの意味を持たせることです。
それをもっともっと難易度を高くして意味を幾重にも持たせるのが技術です。
松尾芭蕉の有名な一句:
古池や蛙飛びこむ水の音
ここにある情報をピックアッしてみると、
蛙が飛び込むまで静かだった。
蛙が飛び込む動きが目についてしまうほど止まった景色。
「古池」で人が慌ただしく暮らす日常とは切り離された空間にいること。
それらを感じ取れる芭蕉がその場所にいるということ。
もちろん読み解くことができることと、
この一句を生み出すことは別次元の話。
でも出来てしまえると勘違いできる人が少なからず存在しています。
その人たちが駄洒落をドヤ顔で言っちゃうし、自分を感性豊かだと思い込めてしまっちゃうのです。
前回で書いた「風の色」を紐解くと、
風=空気の動き→無色透明な見えないもの(という常識)を揺るがす驚きが、発信した人と読んだ人との間で共有されたということ。
この場合の発信側とは 辻井伸行氏 ではなく(こどもの声を汲みとった)お母様です。
ただ感性が欠片もない人ならば「風に色なんかあるわけないやんか」と一笑にふします。
驚くことができた人は、それなりに感性を持っていたってことですね。
最低限、「感性」には受け取る側に驚くだけの素養が必要だとわかります。
僕は感性を感動する心という意味で使っていますが、感動とは「驚き」をきっかけに心地よい感情が沸き起こる」こと by Fikipedia(Fのwikiってことね)。
驚きは大小に関係なく変化に気づかないと起こりえません。
変化を知るには、常日頃、変化のない状態から世界を好奇心で観察していないといけないし、
同時に気持ちが揺れるだけのフレキシブルさがない場合も驚くことは無理です。
さらに一歩進んで、自分が感じたものをそのままに伝えようとする人によって、初めて感性に拡がりがもたらされるのです。
要するに、人に自分の驚きを伝えたい!と思って初めて感性が育ち始めるのです。
伝えたいと願う人
伝えたい言葉を読みとることができる人
の両者がそろってやっと感性が完成します。
自称感性豊かな人にありがちなことなのですが、自分らしい言葉を求めるあまりに自分しかわからない表現を駆使する場合があります。
超弩級ローカル言語なんて人に伝わるわけがないので、この場合感性は完成されません。
伝わらない言葉は解読不能の暗号といっしょです。
自分に湧き起こった感情を伝える努力と工夫なき者が感性という言葉を使ってはいけません。