戦争を考える その九 | 林泉居

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戦争を考える その九

 

             

 

 

企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自ら見(あら)わす者は明らかならず、自ら是(よし)とする者は彰(あら)われず。自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。その道に於けるや、余食贅行(よしょくぜいこう)と曰(い)う。物或(つね)にこれを悪(にく)む、故に道有る者は処(お)らず。

上は、木村英一訳の老子道徳経第24章の読み下し文です。使われるテキストによって使用される漢字や文章も少々違ってきますが概ね似たようなものではないかと思います。その意味するところは、<不自然な行為は永続せず、道を自己のものとした人の取るところではない。>と解説されています。

 

「つま先で立つものは、長くは立てず大股で歩くものは遠くまでは行けない。また自分の有限な視力で全てを見ようとするものは真実をはっきりとは見えず、自分の有限な判断力で善い悪いと判断するものは善悪の判断が正しく彰(あら)われない。自分の手柄をほこるものは何の成功もなく自分の業績を自慢する者は長続きしない。といわれる。このような不自然な行為は、大道においては作りすぎのご馳走、なくもがなの行為と言えよう。そのようなものは誰でもいつでも嫌う。だから道を心得た人はそのような立場には處(お)らない。と言うのが木村氏の解説です。

 

この著者木村氏は、京都大學や大阪大学で教授をされていた中国哲学の専門家です
 

企つは、かかとを浮かして爪先立ちすることです。この姿勢では不安定で長く立っていることは出来ません。動物の中で踵(かかと)のあるものは、人や猿、それにクマやアライグマなど後ろ脚で起立出来る動物です。しかし人ほど安定して直立の姿勢を保てるものはありません。

 

人間に最も近いチンパンジーでさえ足の親指の構造が違いますから早く移動をする時は四つ足で駆けます。人の脳が発達したのが直立歩行によるものとすれば、踵の機能が果たした役割は相当に大きなものがあると言えるのかも知れません。

 

剣豪としてその名を知られた宮本武蔵の「五輪書」にも踵の重要性について言及したところがありますから二本足で立ったまま腕の機能を最大限に活かすには踵の機能を充分に活かすことが大切なのだろうと思います。そういえば、パンチを得意とするトラやライオンなどのネコ族はパンチを浴びせる時に足の第一関節をうまく折りたたんで踵に当たる部分をしっかりと地に付けてパンチを繰り出しています。ユーチューブの動画などでご確認下さい。
 

背伸びをしても安定した姿勢は保てないし、大股で歩こうとしても足が地に着くところは思うほどには伸びません。物事には合理的な加減が必要なのですからその事を無視すれば、いずれ自分の身に反動が反ってくる結果を招きます。合理性をかえりみず調和を蔑ろにするべきではないというのがその主旨です。

 

自ら衿(ほこ)るものは功ならず、この例は、誰しも身近に感じられることではないかと思います。どこの会社にも一人や二人はいるはずです。概ね中年過ぎの中間管理職に多く見られるタイプで聞かれもしない自慢話をとくとくとするタイプです。会社を背負っているのは私なんだと言いたがるのですが、口を開けば開くほど聞くものをうんざりさせます。こういうタイプの人は必ず他人の陰口をたたきます。それでまわりから評価されなくなるのですが、本人は気がつかないのです。

 

上記の読み下し文は現在手持ちの文庫本から引用したものですが、私が最初に見たテキストでは、自ら衿(ほこ)るものは功ならず、自ら伐(ほこ)るものは長(ひさし)からずと順序が逆になってなっていたように思います。木村氏の解説では衿も伐も同じ意味合いの言葉として使われています。そこに何となくしっくりとこないものを感じるのです。衿は、自惚れ、自慢話を吹聴することですが、伐(ほこる)の伐は、征伐の伐(ばつ)で自分から武力を持って攻撃をしかけることと解釈した方が全体の文章がしっくり来るように感じるのです。

 

自ら伐(あるいは戈(ほこ)るものは長からずとは戦争のことであって、つまりこれは、覇権を意味しているのだろうと私は解釈しています。

 

覇権というのは、ヘゲモニーのことで武力や経済など優越的な地位を利用して他者を支配する政略の事をいいます。中国の長い歴史の中では頻繁に覇権争いが続き、統一政権というものは長く続かなかったのです。則ち戦争の繰り返しです。そこに多くの血が徒に流され悲劇が積み重ねられた歴史がありました。老子は、この事を顧みて道の大切さを説いたのではないかと思います。

 

道というのは、人が二本足で歩き始めたいにしえより長い長い数百万年に及ぶ歴史の中で少しずつ明らかにされてきた天地の調和の足掛かりです。それは一方と他の片方との釣り合いのとれる点であり、線でもあるのです。

 

この第24章がいわんとするところは端的に云えば調和を計ることの必要性を説いたのであろうと思われます。

 

人間は、二本足で立ち始めてバランスを取ることの大切さを学びました。そのためには上下左右前後の調和を計ることの大切さを身を以て学んだのです。地球の重力との調和であり、自然との調和です。これを演繹して家庭にも社会にも当て嵌めて考えるならば人と人との調和、国と国との調和が道の教えに適うと説いたのだろうと思います。現代社会においては、法律もまたそのうちの一つの地位を占めているのだろうと思います。

 


覇権は力の支配です。政治家権力者は、この古典的な手段を好む傾向にあります。何故ならば現実的に強力で確実な手段だからです。

 

支配と権力は、同義語であるというスティーブン・ルークスの言葉を思い起こして頂きたいと思います。そして人は支配を拒絶し自由を求める本質的な心を備えている存在であることもです。故に力の支配は、人の道に適わないのです。

 

覇権国家が長く続いたためしはありません。それは戦争を招き悲劇の山を積み重ね滅亡に至る道に通ずるのです。調和の道を尋ね歩くことこそ人の道に通ずるものと思います。それが政治家に課された課題ではないでしょうか。