【文章】拘りの芸術鑑賞作品  | うっず。のDJブログ (U-DB)

【文章】拘りの芸術鑑賞作品 

高台寺の圓徳院というと北政所の伏見城時代の御殿が移築されている大名木下家の菩提寺なのだが、

長谷川等伯の画による絵本墨画山水図という作品の一部がの圓徳院に寄進が移された後、近代になって転売などを経て一部が当圓徳院に遺って他は東京の国立博物館かと思うが他に二ヶ所に所蔵されているというらしい。

(石川県能登の七尾にあると聞いた)

私はまだまだ芸術品を堪能する奥義に至っていないと思っており、特に色彩のない墨画というには子供心にも退屈でよく分からないのだが、こういう絵をガラス張りで見たような記憶がある。
今となっては左掲載写真の絵が有名な室町から江戸期にかけての画である事はパッと分かる上、”長谷川等伯”という画家の名前だけでも知っている。

この絵本墨画山水図という襖絵は元々大徳寺の三玄院で寄贈として長谷川等伯自身が踏み込むようにして強引に押し入って描いた作品なのだという。
大徳寺の三玄院というと私もわざわざ個人でも訪問を目指した事があったが、石田三成が納骨されている三成の菩提寺である。

当時の住職は春屋宗園といって彼の弟子だという薫甫宗忠を佐和山城内の亡母の菩提寺である瑞嶽寺という寺院の住職に任命をさせて同じく弟子の沢庵宗彭を同行させたのだという。
その為薫甫宗忠と沢庵宗彭は関ヶ原戦役中佐和山城内に居る事になってしまった。


結果攻城の各将では救出者の対象として伝わっていたのであろう、両名は佐和山城から落ち延びる事が出来たのだという。
石田三成の斬首後の晒された首は期間を経てから沢庵宗彭が正式に引き取れた模様で、首を土葬したのか火葬してから埋めたのかは分からないが、無事彼が生前に建立していた三玄院の墓石下に収まる事が叶った。


このような石田三成の曰く付きの菩提寺に長谷川等伯が画材を持って押しかけに来たのだという。
住職の春屋宗園は
『そんな装飾は無駄な事だ。帰れ』
と言って従者に命じて手荒く追い返したのだという。
春屋宗園は佐和山城の華美を徹底的に慎んだという三成の姿勢に倣って菩提寺も装飾をしないようにしていたのであろう。


しかし春屋宗園が外出する機会を狙って長谷川等伯が再び三玄院内に押し入って、時には従者に羽交い締めにされながらでも強引に襖に墨画を描き上げてしまったのだという。
春屋宗園が戻って来た時には既に遅しで襖絵は完成されてしまっていた。
当初苦々しくその絵を眺めていた春屋宗園は
『・・・しかし良い画だとは思う』
と言ってしまって、そのままにして置く様にと従者らにも申し渡した。

何故長谷川等伯は執念を以てわざわざ三成の菩提寺で絵を遺そうとしたのであろうか。
御用達の画家の世界では狩野派が受注の一切を引き受けており、長谷川派の活躍の場は狩野派によって牽制を被っていたらしい。
その受注を多分石田三成が便宜をしてくれたのではないか。
その豊臣期の長谷川等伯の受注した御用達作品の中でも秀吉の遺児鶴松を菩提する祥雲寺(現智積院)の障壁画が当時の代表作らしい。


三成は秀吉の男子を後見する事を自身の政治生命に賭けていた人だったので、狩野派の絵師たちが豊臣秀次の聚楽第で受注を受けていたのを横目で見ていて、長谷川等伯に持ち掛けたという政治的な背景もあっての事だったのではないか。

つまり絵本墨画山水図に描かれた猿は太閤秀吉と太閤を慕う猿(三成)とが表されている様な気がする。