昨年末12月、南インドのマイソールで一ヶ月間を過ごしました。
アシュタンガヨガの総本山であるKPJAYIで学ぶために。
2003年の1月からアシュタンガヨガの練習を始めて、途中ケガなどで中断せざるを得なかったり、他のメソッドのヨガに興味が出て中断した時期もあったけれど、11年間ほぼ継続的にプラクティスを続けてきた私が、なにゆえいまごろになってインドに行こうと思ったのかということと、実際に行ってみて、そこで学んだこと、気づいたことなどから、あえて、いまアシュタンガヨガについて自分が思うところを、文章にまとめてみようかと思います。話が長くなるのですが、やはり最初のアシュタンガヨガとの出会いから少しずついろいろなことを思い出しながら書いてみようと思います。
私が最初に出会ったヨガはアシュタンガヨガではないのですが、いろいろと紆余曲折があったのち、出会うべくして出会ったとしか言いようがないくらい、衝撃的なアシュタンガとの出会いでした。その頃、東京でアシュタンガヨガを教えられる先生は、ケン先生しかおらず、練習できるスタジオも、IYCくらいしかありませんでした。そのうち外国人の先生や日本人の先生も、あちこちにスタジオを立ち上げたりして教え始めますが、まだまだ小規模なサークルといった感じで、IYCのケン先生のクラスの雰囲気は独特でした。いい意味でものすごい緊張感をしいられる場所であり、セルフプラクティスのあり方を学びました。当時のケン先生の教え方は、インドで故パタビジョイス先生に教わった通りに生徒たちに伝えられていたと思います。レッドクラスでのカウントの仕方やマイソールクラスでの指導の仕方など、ときにはユーモアも交えていましたが、言葉は本当に少なく、アジャストで伝えるという感じでした。それも、もっとポーズをきれいにするといった方向性で指導されたことはありませんでした。最初はレッドクラスを中心に参加していたので、ポーズができてもできなくてもどんどん進むことにとまどいました。
マイソールクラスに参加するようになると、できないポーズに出会うと先生からそこまで!とストップをかけられているのを見て、「そうか、できるところまでを練習するんだな」と理解しましたが、自分が苦手なポーズが、どうしていつまでたってもできないのかがさっぱりわからず、先生も特になにもおっしゃらないので、最初の印象は「なにも教えてもらえない!」でした(笑)。アライメントなどまったくわからないまま、必死に毎回ついていくという感じでしたが、このヨガのよいところは、シークエンスがきっちりと決まっているということです。つまり生徒は、どんな初心者でも数回クラスに参加すれば順番を覚え、決まったことを決まった順番通りにやるだけということになります。いちいち先生の説明を聞くために目と耳をそちらに向ける必要がないのです。同じことの繰り返しに、人はいつか慣れるものです。そのうち、呼吸やバンダ、ドリシュティなどを教わり、それに集中することが大切とわかると、さらに集中しやすくなります。いままで参加していたヨガクラスとは、そこがまったく違いました。それまで参加していたヨガクラスというのは、いちいち先生の話をきかないと先に進めなかったので、実際はシャバーサナ以外ずっと意識が先生の方にむいたままでした。つまり最後の5分間以外は、ヨガではなくポーズの練習をしているだけでした。アシュタンガヨガは最初にチャンティングをしてスリヤナマスカーラが始まると、シャバーサナまでずっと自分の内側に集中し続ける練習です。カウントは聞きますが、先生の方に目や耳を傾ける必要はありません。ましてや隣の人のポーズなどどうでもよいのです(笑)。
そのうちヨガブーム到来で、ものすごい人の数がスタジオに押し寄せ、定員オーバーになることもしばしば。都内のあちこちにスタジオが出来、ヨガを教える人もヨガを練習する人も増えていきました。かつてはオウム事件のせいで、日本人にとってのヨガのイメージは最悪なものでしたが、いまでは、迷うくらいたくさんのヨガメソッドがあり、たくさんのヨガスタジオもあり、アシュタンガヨガを練習できるスタジオ自体いくつあるのかわからないほどです。そして私を含めヨガを教える人も星の数ほどいます。
選択肢が増えるというのはとても豊かなことだと思います。しかし、同時にひとつのメソッドに対しても様々な解釈が施されるようになりました。この様々な解釈とういうのが、ここ数年間私が最大級に悩んでいたことなのでした。自分の練習においても教える立場としても、常に軸がないような感じでした。ヨガを教えさせていただく機会をいただいた最初の頃の方が迷いがなかったように思います。先生に教わった通りに伝えるだけでしたから。そのうち、同じアシュタンガヨガでも他のメソッド(アイアインガーヨガやある種のボディーワークなど)とミックスした指導をする先生が、世界中に増えていきました。特にインドで怪我をした先生は、authorizedやcertified teacherでもマイソールの指導法に疑問を感じ、アシュタンガヨガといいつつ自分流のメソッドを生み出す方が多いようです。ヴィンヤーサを完全に無視してひとつひとつのポーズをたくさんのプロップスを使って実践したり、練習の前に入念なストレッチをすすめたりと、様々な指導法があるようです。そして、そういう先生のWSなどで勉強した日本人のインストラクターも同じように指導をする人が増えていきました。実際にわたしのクラスでも、どこかで教わってきたのか、そうしている生徒さんをよくみかけます。わたし自身、その方が良いのか?と何度も悩みました。しかし、それらは、わたしが信じてやってきたこととは全く異なります。ほとんど別のものとしか思えません。そのうち、どんどん自分の練習もクラスでの指導も自信がなくなり、情報だけが蔓延する中で、何を信じたらよいのかわからず、もう限界だと思うようになりました。今回、はじめてインドにいってみようと思ったのは、自分の目でマイソールの指導法をみてみたい、原点にもどりたい、やはり、ヨガはグルの系譜からしか学べないのではないか?(グルパランパラー)などなどの思いが、重い腰をあげるきっかけとなりました。
わたしが最初にアシュタンガヨガを教わった頃には、「ストレッチをするな」「水を飲むな」「汗を拭くな」といわれました。最近のやり方とは大きく違います。
このことは、いったいなんの根拠があって?と最初は思いましたが、アシュタンガヨガのヴィンヤーサシステムが、浄化のプロセスをたどるものだと考えれば当然のことです。プラクティスは、ウジャーイーの呼吸で熱を生み出し、その熱を身体中にめぐらすことで浄化をすすめます。特にプライマリーシリーズは“yoga chikitsa”肉体の浄化を目的にデザインされています。インターミディエイトになると”Nadi shodhana”神経システムの浄化をすすめますが、今回マイソール滞在時にカンファレンスでシャラート先生は「プライマリーシリーズでもナディショーダナは可能だ」とおっしゃっていました。そのためのkeyが呼吸とバンダ、ドリシュティです。
もう、なんども聞きすぎて、わかっているよ!そんなことと言われそうですが、あらためてまとめてみましょう。簡単なことほど、人はできないものです。8支則の最初の二つyamaとniyamaがあまりにも難しいから、比較的入りやすい三つ目のasanaから入るのと同様に、呼吸、バンダ、ドリシュティで最も入りやすいのは、おそらく呼吸でしょう。
このinhalationとexhalationの二つのアクションに集中するというのが、ポーズの順番をおぼえた生徒が、まず最初にやるべきことではないでしょうか?ヴィンヤーサの流れの中で、自分の呼吸をじっくりとみつめていると、それが決して等間隔ではないことに気づきます。苦しい動きやなにか余計なことをしようと意図しているときには、だいたい呼吸は止まるか、浅くなるものです。マインドの動揺がすぐに呼吸の質を左右することに気づいていきます。そのこと自体をジャッジをするのではなく(ああ、わたしはダメだなあ的な)、ただ単にありのままを受け入れていきます。怒ったり、ジャッジしたところで、なにも生み出しませんから。この、ジャッジせずに“ありのままの自分”をそのまま受け入れてみられるようになるには、毎日練習する以外ありません。そして何年もかかるものだと思います。インドで週6日のプラクティスを続けました。それまで日本では、週に4~5日くらいだったので、そんなに練習できるかな?しかもレッドが週2日、とちょっと不安感もありましたが、実際にやってみてわかったのは、朝の1時間半弱くらいのプラクティスが1日24時間の生活の基盤になっているということでした。そして、それにあうライフスタイル(週6日のプラクティスが負担にならない生活)に自然とシフトしていきました。まず最初に食事内容を検討しました。かつては10年近くも肉食を絶っていたのに、最近はなんでも食べていました。そして、アルコール!これは好きすぎて一生やめられないと思っていました。さすがに夜遅い時間に飲んだり食べたりはしませんでしたが、週末ともなれば好きなだけ食べたり飲んだりをしていました。しかし、ヨガ的に良くないものを身体に入れると、確実に痛みとなってあらわれます。わたしは日頃からあまり身体が痛くならない方ですが、飲みすぎ食べすぎの翌日は、バックベンドの際に違和感や若干痛みを感じていました。以前は仕方ないことくらいに受け止めていましたが、インドでラクトベジタリアン(乳製品はとる)の生活を続けていると、確実に朝身体が軽くてとても柔らかく、アサナが楽にできました。エネルギーの流れをブロックするものがない分、さらに呼吸やバンダに集中できます。インドから帰国する前にシンガポールに寄ったのですが、誘惑にまけてビールを飲みチキンを食べたら、翌日には顔にも体にもブツブツができ、身体もおそろしく硬く重くなりました。一ヶ月間でかなり浄化がすすんだようで、異物が入ってくると身体が反応するのです。私自身は特に何かの宗教を信仰しているわけでもなく、肉食や飲酒が悪いことだとは思っていませんが、はっきりと身体がうけつけなくなってしまうと、やはり不必要なものなのかなと思います。せっかくなので、しばらく続けてみようとおもっています。東京は誘惑が多すぎる街なので、困難を伴うとは思いますが(笑)。
話がすこしそれましたが、呼吸に集中することが出来るようになったら、バンダやドリシュティに集中することも少しずつ始めてみます。バンダというのは、言葉の意味そのものは”lock”ですが、特にムーラバンダはルートをしっかりと築くことにつながります。スタンディングポーズで足の裏から大地のエネルギーを感じ取り、ムーラバンダと結びつくことで、アサナは不動のものになります。シッティングポーズでは坐骨から、ハンドスタンドでは両手の平から、同じようにエネルギーを感じ取りムーラバンダと結びつけていきます。プライマリーシリーズにウッティタハスタパーダングシュターサナというバランスポーズがありますが、これほどマインドの状態をうつす鏡のようなポーズはないと思います。何年も練習しているポーズなのに、少しでも集中力が途切れたり、力でねじふせようとするとすぐにグラグラとバランスをくずします。ムーラバンダと繋がらないと、非常に苦しいポーズでもあります。逆にムーラバンダと繋がれば、驚くほど軽く、脚は勝手に上がってくるポーズでもあります。このように、ムーラバンダは、ルートを築き、強さと軽さをもたらします。そして、ウジャーイーが生み出す熱と深く関係してきます。この熱を身体中に巡らして、毛穴から汗がじんわりとふきだすときこそ、浄化が進んでいる時なのです。そのためには、ヴィンヤーサの流れを止めないことはもちろん、水など一切飲まず、せっかく作り出した熱を冷まさないように練習することが大切なのです。そしてマインドがあちこちさまよわないようにドリシュティで視線をしっかりと固定するのです。
インド滞在中の一ヶ月間は、毎朝無心でプラクティスをしました。シャラの独特の雰囲気、エネルギーレベルの高さなどに驚きつつ、とてもおだやかな気持ちで深い集中力を維持しながら、丁寧にプライマリーシリーズを練習しました。その甲斐あってか、まさにこの当たり前のような、アシュタンガヨガの基本的なことを再確認することができました。週6日も練習するなんて無理!という声が聞こえてきそうですが、それならスリヤナマスカーラABとフィニシングの3ロータスだけでもよいと、グルジは言っていたようです。それがミニマムプラクティスだとも。痛みがあっても継続することが大切なんだとも。
インドでは手も足もでないようなポーズに出会うと止められます。そこまで!とストップをかけられます。いまのシャラート先生のやり方で怪我をするとは考え難いです。まだ、身体の準備ができていないのに、先のポーズ、先のシリーズまで練習しようとすることが怪我につながり、エゴを助長するように思います。
最近は、解剖学が人気で、どの筋肉をどう動かすかということが、あちこちのWS等でさかんに取り上げられたり、そういう指導が盛んです。しかし、アシュタンガヨガの練習においては、WS等で学んだ知識は、それはそれとして勉強になるのですが、いったん忘れた方がよいと思います。頭で考えることをし続ければ、エネルギーは空回りするばかりです。アサナの最中にアライメントのことなど考えれば、その時呼吸はどうなっているでしょうか?おそらく非常に貧弱なものになっているでしょうし、バンダやドリシュティなど???という感じでしょう。呼吸の生み出す熱が大切と何度も書きましたが、この熱がバンダと結びつくことで、強さと軽さをもたらしてくれます。どうしたらポーズができるようになるか?と、やたらと解剖学的な知識を増やすよりも、どうしたら質の良い呼吸ができるか?に考えをシフトした方が、結果的に楽にポーズができるようになります。いまの時代はすぐに結果を求める傾向が強いので、解剖学のような”目に見えるもの”がもてはやされるのはよくわかります。しかし、アシュタンガヨガにおいて、最高の先生はプラクティスそのものだと思うし、大切なものは目に見えないものが多い(バンダや呼吸など)のです。このことを理解するのに、わたしは10年近くかかりました。
”リラックスする”ということも、多くのパラドックスを含むように思います。
日本では、特に女性の生徒さんたちが、筋肉がつくことを極度に嫌がり、腕に負荷がかかるような動きを排除するというか、ヴィンヤーサは雑に流して、ポーズに入ってからウジャーイー呼吸を始めるというような練習をしている人をよくみかけます。がんばらなくてもよいとか、リラックスが大事と言われすぎてしまったせいでしょうか?しかし、そういう練習はあまり体内に熱を作り出さないので、結果的に汗もあまり出ず、浄化もすすまず、軽さと強さとは程遠い練習になるようです。
確かにアサナの最中にリラックスすることは、とても大切です。しかし、アシュタンガヨガのシークエンスはそんなに簡単にリラックスしながらできるものではありません。難しいポーズの連続で、最初は緊張しないほうが無理です。わたしは何年もリラックスできませんでした。これも、リラックスできるようになるには呼吸の質をあげるしかありませんが、やはり年数がかかります。インドで練習していて感じたことのひとつに、女性たちの筋肉の美しさがあります。欧米人の女性にとっても、ジャンプバックのような動きは苦手なはずです。しかし、決して諦めていない、毎回毎回チャレンジしようとする、その姿勢に心うたれました。その静かな力強さは、本当に美しいものでした。アサナもヴィンヤーサもコインの裏表、どちらも同じくらい大切に丁寧に練習している人が多かったです。
柔軟性と力強さのバランスをうまくとっていくことも、練習において大事なことのひとつではないでしょうか?概ね、女性は前者が、男性は後者が得意なケースが多いですが、どちらかに傾きすぎず、両方のバランスをとっていく練習も大切だと思います。
マイソールでは、毎朝のプラクティスも素晴らしかったのですが、週一回のカンファレンスで直接シャラート先生のお話をきけたことも、素晴らしい体験となりました。この時に改めて、プラクティスはエクササイズではなく、サーダナ(修行)なんだと再確認し、8支則のうちまずはアサナの練習を毎日毎日繰り返すことの大切さ(グルジは最低でも10年間はアサナの練習をつづけるようにと、プラナヤマや瞑想はその後だとも言っていたようです)や、バンダ、ドリシュティの大切さなど、なぜそれが大切なのかや意味を改めて教えていただきました。
渡印前から気になっていた本”Guruji”を、滞在中ずっと読んでいたのですが、この本も素晴らしくて、たくさんのことを学びました。現地でも話題の本で、もう既に読んだ人や読んでいる途中の人などたくさんいました。みな、この本の感想を熱っぽく語って、原点を再確認しているようでした。
思いつくままに、書き連ねてしまったので、まったく脈絡のない文章になってしまいましたが、まだ熱が冷めないうちに、自分の考えをまとめてみたくて、そして誰かにシェアしてみたくて、僭越ながらブログというかたちでまとめさせていただきました。ここまで、読んでくださった方、本当にありがとうございます。