今回は前回のクエスチョンの回答編。

後半は、番外編としてカウンセラーのモノローグです。

 

前回、前々回の web再録(1) と web再録(2) もあわせてご覧ください。

 

acworksさんによるイラストACからのイラスト              

 


□「バケツリスト("bucket list")」は「棺桶リスト」!?そのわけは…
前回は、このセミナーのタイトルでもある「最高の人生の見つけ方」は

2007年のアメリカ映画がもとで

その原題が"The Bucket List"であること。

 

そして、"bucket list"が日本版では「棺桶リスト」と訳されていることを紹介し

それはなぜか?というクイズで終わりました。

☆ヒントは、"kick the bucket"が、英語で「死ぬこと」を意味するイディオムであること。


セミナー参加者のみなさんからは、
「生きている間には、いろいろなことがあるけれど、死んだら何も持っていけないから、

すべてをバケツに入れて、蹴っとばしてスッキリしてから逝く」
という、お答えが異口同音に出てきました。



 

□意外な答え…
みなさん、ある意味たいへん前向きな答えをいただきました。

このようなセミナーに参加しようと考えるくらいの方々ですがら、

前向きなのは当然かもしれませんが。。

このような答えに接することができるだけで、ホッとする思いがします。

というのも、"kick the bucket"(バケツを蹴る)とは、

おそらくこれを読んでくださっているみなさんも想像していないような

意外な場面を表しているからです。


どんな状況でバケツを蹴るのか…

バケツを蹴るのはどんな人なのか…


近頃の日本のバケツはプラスティック製がほとんどですが

ここでいうバケツは金属製(たぶん)。

 

象が乗ったら壊れるけれど、人が乗っても壊れない。
 

 

 

バケツに乗ったその人の目の前にあるのは…

 

 

 

 

天井から下がったロープの輪!?

 

 

 

 

 

次の瞬間、その人はバケツを蹴ります。
 

 

 

 

 

 

人生最後の行為として…

 

 

 

 

"bucket list"とは

正確には"The kick the bucket list"の略だったのです。


□最高の人生の最後がバケツを蹴る?
「最高の人生…」というタイトルの割に縁起でもない」

と思ったのは私だけではないでしょう。

この物語の主人公はいずれも末期ガンの患者ふたり。

 

余命宣告によって、強制的に人生のゴールを決められてしまったら

残り時間をどのように過ごせばいいのか?
 

人によっては、それだけで生きる支えを失い

文字通り、首を括りたくなるかもしれません。

しかし主人公たちは、そうはしなかった。


死と向き合いながらも

最後の最後まで生きることを選んだのです。

 


日本版では、吉永小百合さん演じる普通の主婦と

天海祐希さん演じる大金持ちの実業家のロードムービーという

映画ならではのドラマティックな演出はあるものの

心の持ちようは、現実世界の私たち自身を映し出す鏡として

参考にしたいものです。

ハリウッド版で言及されていますが

心理学の講義では

このような「棺桶リスト」を書くことで

自分の深層心理を探るという課題があるそうです。
 

私自身も

学生時代に受けていた社会学の講座で

「自分の死亡記事を書いてみる」

という課題が出されたことがありました。

そのとき書いた未来と現在とでは

かなり違った人生になっているのはご愛敬ご愛敬…(苦笑)



□思い出された父のことば
ここからは私事ですが…

この記事を書きながら、大腸ガンを患って亡くなった父のことを綴っていきたいと思います。


父は、平成4年に大腸(S字結腸)ガンが見つかり切除。


その後、20年生きながらえましたが、再び大腸ガンを発症。

大手術の末にストーマ(人工肛門)生活になりました。

抗ガン剤投与や入退院を繰り返すこと数年。
元旦の83歳の誕生日を家族で祝った数日後の検診から、そのまま入院。

再び家に帰ることは出来ませんでした。

亡くなる数日前、見舞いにいって話しているとき
父は、ふとこんなことを言いました。

「俺は死ぬまでは生きている」


「いろいろ不便で、不自由で、不安で、不運だったけど、

不幸だとは思っていない」
 

「俺が死ぬということは、それが天寿を全うしたということだ」

 

人一倍理屈っぽくて、感情を表に出すのが苦手な父。

おそらく自身の死の恐怖と向き合いながら、

それでも最後まで自分の生を生きようとしていたのだと思います。


私たちは、健康的に日々を過ごしている間は

生きるということが当たり前のことと思っています。
というより、自分の死を意識しながら暮らすほど

日常生活は私たちに余裕を与えてはくれません。

 

死と向き合うということを、社会全体がシステムとして

宗教家や医療関係者、哲学者など一部の方々に

請け負ってもらいながら生活していると言い換えてもいい。


私たちは、死を意識しないまでも、日々の生活に忙殺されることなく

自身の未来を意識しながら日々の生活を送りたいと思います。

 

私たちの未来のへその緒は、今ここにいる私たち自身に繋がっています。


今回も最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。

あなたの未来が よりよい未来でありますように。

(^^)b