【丸金3石碑】


丸金2の石碑から廃登山道の「鳴沢道」を東に400mほど進むと、丸金3の石碑が現れる。
ここでは石碑が二つあり、それぞれ年代と経緯が異なる。材質はやはり安山岩と思われる。今回の記事では石碑の謎についても書いていく。


まずは写真左(東)側の解読が簡単な石碑から。これは道標タイプ。

 

「              同行六人
           右ぎやうば
丸に金マーク 詣       道
           左なるさわ
 明治丗丁酉年二月廿日建之」

丸金2同様、明治30年(1897年)2月20日に建てられたことがわかる。十干十二支はこの年の「丁酉」。丸金2石碑と同年同日であり、「同行六人」も前回紹介した、丸金2石碑と同じ施主によって建てられたのは間違いない。

「ぎやうば」は行場(ぎょうば、修行する場所)であり、富士講の修行で使われた精進御穴(日洞と月洞の二つがある)近くに作られた乾徳道場のことを示すのは間違いない。この行場道の途中にも修行で使われたと思われる「上人穴」や、精進風穴群(第一から第五まで見つけている)も存在する。

 

改めて立地条件を地図で確認。今回は地図上の「マル金3」。東西を結ぶ廃登山道「鳴沢道」と、乾徳道場へと続く「行場道」の分岐点にある。行場道は南東に一度向かい、南西に向きを変えるポイントに「上人穴」と「精進風穴群」がある。富士講の信者にとって「上人穴」と「精進風穴群」は大事な場所であり、通る必要があったのだろう。

丸金の石碑は、富士講の「丸金講」からくるものだと私は思っていたのだが、どうも丸金講のマークは「山」マークの下に「丸に金」らしい。

「江戸庶民の憧れ-富士講」(横浜歴史研究会 高尾隆氏、平成30年5月)の論文を引用させていただくと、丸金講の富士塚が神奈川県横浜市神奈川区に残っていることが分かったので、改めて調べに行く必要も出てきた。
富士講研究者の不二雄さんや、ブログ『富士山の古絵葉書』さんの「青木ヶ原樹海内 丸金講関連碑?」では、「金刀比羅講」説で考えている。四国の讃岐(香川県)琴平町にある金刀比羅宮までお参りにいった記念で道標を作ったということなのか、またはそこから勧進した金比羅系の神社が近場に存在するのか?

私はそれでも「丸に金」は一致するので「丸金講」の可能性もあると思っている。富士山精進口登山道の登り口に位置する精進湖や西湖周辺の民宿村は、かつて富士講の指導者兼宿泊経営者の「御師」集落であったのではないかと推測している。現在も河口湖の富士浅間神社門前(富士山吉田口登山道の登り口)では、御師の人たちの集落が残っている。西湖や精進湖の周辺に丸金講の御師もいて、その人たちが道標を作ったという可能性はあるのかもしれない。その場合、「山に丸金」のマークは、山を省略しただけかもしれない。

ただどちらの説が正しいのかは現時点ではわからない。

 

次に写真右側の石碑。ただこれは解読が難しく、現時点の私の実力ではここまでしかわからない。拓本を取ったり、富士講の歴史を調べた上で再度挑戦をしたい。
このブログにおいても研究が進み次第、投稿を行う予定だ。

 

「         大 専 窟?
南無阿弥陀佛 賢鏡(花押)」


「南無阿弥陀仏」と書かれた「六字名号塔」なのは分かるが、なぜ仏教の「南無阿弥陀仏」なのかは、富士講自体が神道と仏教が合わさった神仏習合の山岳信仰だったことがあげられる。
「賢鏡」さんとは一体誰なのかというと、精進御穴つまり乾徳道場の二世の賢鏡さんのことらしい。精進御穴を開山したのは一世の誓行徳山さん。つまり修行に適した溶岩洞窟が精進御穴で、そこに作った道場が乾徳道場ということになる。

 


「            三島村願主?
山に臣マーク  遵供養  箕□□□
                □□□□
                長(真?)田伝□」

漢字ので書いた箇所も自信がなく、□の箇所も私の実力不足で解読することができなかった。願主の後に続くのは、設立者の名前が連名で刻まれているのだろう。山に臣のマークは「山臣講」という富士講の組織が設置したものであることが分かった。山臣講の発音は「やましんこう」なのか「やまおみこう」なのかは現時点ではわからない。私は後者で読んでいたが。

 


「        生田村 □□
         世話人 内□□□□
              小□□□□
              同□傳□□ 
              □□宗□□
              同 □□

天保十五甲辰年 
  六月三日建之」

 

天保十五年(西暦1844年)6月3日に建てられたことがわかる。甲辰(こうしん)は十干十二支でも一致。

生田村の解読が本当に正しければ、神奈川県川崎市多摩区の南部、麻生区の東部にあたる。電車では小田急線の生田駅の周辺ということだろうか?

一方で上記でも引用させていただいた、横浜歴史研究会の高尾隆氏論文では、山臣講は「(神奈川県)相模原」と出てくる(バッシーさんやサヲさんの動画でも同様に紹介されている)。ならば刻まれているのは本当に「生田村」なのだろうか?

世話人とは辞書の意味では「団体などの事務を処理しその運営をする人」なので、富士講の運営者だったのだろう。

山臣講について四苦八苦して調べていたら、【「忘れられた富士講? 鳴沢村山臣講についての展示」を開催します】という萱沼進さんの調査報告が平成25年(2013年)11月富士ビジターセンターにおいてあり、「これを見に行っていれば全部分かったじゃないか!」と今更ながらガッカリしたのであった。萱沼さんは富士山レンジャーもしている方らしい。研究論文や図録も出ていたら購入したい。これだけで謎がすべて解けてしまう。

 

ともかく文字やマーク、富士講の分析など、私自身が現時点で「まだ分からない」点はまだ多く存在している。
丸金講は神奈川県横浜市神奈川区、山臣講は神奈川県川崎市or相模原市で、どちらも神奈川県(相模国)に存在する。この青木ヶ原樹海周辺では、神奈川県との関係をつなぐ、何か歴史があるのかもしれない。