【丸金2石碑】
丸金2から本来の「丸金マーク」が現れる。
これは分かりやすく道標のタイプだ。
材質は玄武岩質溶岩ではなく、安山岩を四角柱に切り出したと思われる。青木ヶ原樹海にある石ではなく、近場の産地から石碑のために施主が運んできたのだろう。
「丸に金のマーク 詣 此方 志やうじ道」
「志やうじ」とはもちろん精進湖や精進集落のことで、具体的な「精進道」は現在の「精進口登山道」にあたると推測できる。
「此方 祢んばみち」
祢の読みは「ね」。「ば」の箇所も読みづらいが、これは変体仮名で「者」を崩した字だと私は判断した。現在のひらがな(平仮名)では「あ」という文字は「安」から発展した「あ」しかないが、昔は変体仮名として複数の漢字から発展した言葉も使われていた。たとえば「阿」「愛」「悪」「亜」など。
「ねんばみち」とは、根場(ねんば)集落(現在の西湖野鳥の森公園・西湖いやしの里根場)方面へと続く「根場道」のことを表している。
この道はほとんど分からないような廃登山道となっているが、石碑の分析により道があったことが判明した。分岐からわずかに道が残っているが途中で見失ってしまい、正確なルートではいまだたどれていない道だ。
台座の石には「施主」つまり作った人の名前が記載されているので、拡大してみよう。
「施主
渡辺□三朗
同 長右エ門
同 源左エ門
同 幸 蔵?
小林□
石川(?)十右エ門」
※□は「はこ」と読み、解読できない箇所を表す。
渡辺(渡邊)、小林、石川姓は地元に多い姓であり、地元の方が利用者の利便をはかるために作ったということが推測できる。また乾徳道場関係で渡辺、小林、石川姓の人が出てくる史料があるので、そのことも後日ブログに記載する予定だ。
「此方 モとすみち」
「と」の箇所がわかりずらいが、これも変体仮名で「登」という字の崩し字だ。詳細はこちらから。
本栖集落や本栖湖へと続く、本栖道のことを表している。
「此方 奈るさわ道
明治丗 丁酉年 二月廿日建之」
「丗」は三十の漢字。「廿」は二十の漢字。明治30年は西暦1897年。つまり施主により、明治30年2月20日に建てられたことがわかる。
「明治」の箇所は不明瞭だが、十干十二支(じゅっかんじゅうにし、じっかんじゅうにし)は確かに丁酉(ていゆう)であるため明治と判明。今も普通に使われる十二支は12年で一回りだが、十干十二支まで含めると60年で一回りするため年を特定するのに便利だ。
十干十二支はなじみがない人も多いが、阪神甲子園球場は大正13(1924)年の甲子の年にできたため、甲子園という名が使われている。他にも壬申の乱(672年)や天正壬午の乱(1582年)、戊辰戦争(1868-69)や辛亥革命(1911-12)といった形で歴史ではなじみがある言葉だ。
念のため、丸金2の石碑を地図で。
先ほど国土地理院の「図歴(旧版地図)」から、25000分の1地図で「鳴沢」を選び、昭和3年(1928年)測量、昭和6年(1931年)発行のこのページで一番古い地図をみたところ、私が考えていたよりももっと東よりに根場道は通っていた。「溶岩の海」をかすめるように。正確な根場道の追跡は、今後の研究課題になった。
次回は丸金3の石碑を。