足尾銅山の深沢地区は、江戸時代から間藤村(日光市足尾町間藤)の農耕地だったが、明治10(1877)年の古河が足尾銅山の経営をはじめてから発展していった。一年後には、深沢地区が日光と足尾を結ぶ運送路の足尾側起点になり、物資や人馬の往来が盛んになり発展していった。しかし明治24(1891)年に馬車鉄道が開設されると、運送路は放置され、奥地は鉱泥の堆積場になったという。集落は銅山工事の請負師の住居などにり12~13戸あったというが、明治35(1902)年には大火により全焼。
のちに銅山住宅が建設され活況を取り戻した。昭和14(1939)年には新社宅3棟が増設され、昭和39(1964)年には34世帯353人も住んでいたが、銅山の合理化により人口は減少し、平成8(1996)年には無人の集落となった。
(以上、日光市による看板「足尾銅山社宅 深沢 往時のようす」より一部改変・抜粋)

放置された深沢集落の中央には、日光へと続く運送路が廃道となって残されていた。
廃道と廃墟のみのため、人の気配はまったくしない。

「そうだ樹海、行こう」   |←樹海|  ┗(^o^ )┓三


「そうだ樹海、行こう」   |←樹海|  ┗(^o^ )┓三
道路沿いに、転々と廃住宅が並ぶ

「そうだ樹海、行こう」   |←樹海|  ┗(^o^ )┓三
レンガ造りの防火壁。足尾には今も数多く見られる。足尾では大火が繰り返し起こり、火事から住宅を守るために、防火壁は重要な存在だった。

「そうだ樹海、行こう」   |←樹海|  ┗(^o^ )┓三
風雪や災害にも巻けず、今もしっかり防火壁が残っているのは、頑丈に作られた証拠だろう。

「そうだ樹海、行こう」   |←樹海|  ┗(^o^ )┓三
放置されたバイク