「そうだ樹海、行こう」   |←樹海|  ┗(^o^ )┓三
樹海内部にある誰かが作って設置した観音像。「命大切」と書かれている。

「そうだ樹海、行こう」   |←樹海|  ┗(^o^ )┓三
樹海内部にあるマリア像。どちらも場所は富岳風穴駐車場の南側、徒歩10分程度。

少し前の樹海探索で、あいかわらずのように二体のご遺体と遭遇した。
一体目は自分の隊が探索中に見つけたので、自分が責任者として警察に通報し、翌日は友人が見つけたのでそちらで通報と回収もやってもらい、自分はそれ以外の仲間と樹海内でゴミ拾いをしていた。
ゴミがなくなり、きれいになった森を振り返るのはとても楽しい。

いつも思うことがある。

「なぜ樹海で死ぬのだろう?」

世間の多くの人は、樹海を死の森と呼ぶ。
おどろおどろしいイメージでしかとらえようとしない。
そのイメージに乗せられて、多くの自殺志願者が結果的に樹海での死を選んでしまう。

しかし、人工の音が一切聞こえない原生林の時間や、太陽の光が森を通過して降り注ぐ夕暮れや日の出の瞬間、ビロードのように生えたコケが水滴をかかえた景色、木々の合間から星明かりが降り注ぐ深夜のひと時。
仲間と情報を分析し、いくつ眠っているか分からない未発見の溶岩洞窟を探すのも楽しい。
どれも自分にはかけがえのない景色や経験であり、出会うたびに心の底から楽しい思いをすることができる。

死を選ぶ人は、それに足るだけの重い理由があるのだろうが、それらに気づかないまま世の中に絶望し、死んでしまうのは、もったいないように自分には思える。
最終的に選ぶのはその人なのだけども。

問いはもう一つある。

「なぜ自分は自分で死を選ぼうとしないのだろう?」

答えは出ている。
「生きていて良かったと思える瞬間が結構あるから」

探索の経験に限っても、樹海以外にも、廃墟や遺構、山登りや旅の景色などで、「生きててよかった」と思えるぐらいすごい風景に定期的に遭遇する。何かを成し遂げたり、人の役に立つ充実感、知らない事を知ったり、いろいろ文献や資料を調べて計画を立てるのもとても楽しい。

すばらしい経験をしたことは、今も自分の記憶にしっかりと残っている。そして生きていれば、またそういう経験に絶対に遭遇する。必ず。
それが自分が自分で死を選ばない結果になっているのだと思う。
今は結構楽しいけど、過去には厳しいこともあったりしたので、それなりに追い詰められる厳しさというのは分からなくもない。
それでも自分で死ぬのはもったいない。

だから、せめて生きているうちは自分がやりたいと思うことをできるだけしたいと思う。

どうせ人は、いずれ必ず死んでしまうのだから。