10 私たちには、このすばらしいことが何かわかっています。神様がご自分の聖霊を通して知らせてくださったからです。神の霊は、神の最も奥深いお考えを探り出して、それを教えてくださるのです。
11 人が何を考えているか、その人が実際にどんな人間であるか、本人以外にはわかりません。同様に、神の考えを知りうるのは、神の霊以外にありません。
12 事実、神様は私たちに、この世の霊ではなく、ご自分の聖霊を与えてくださいました。それは、神からのすばらしい恵みと祝福という賜物を、私たちが知るためです。
13 この賜物について話す時、私たちは、自分が人間として選んだことばではなく、聖霊によって教えられたことばを使ってきました。つまり、聖霊のことを説明するには、聖霊のことばを用いるのです。
14 しかし、クリスチャンでない人は、聖霊が教えてくださる神の思いを理解することも、受け入れることもできません。彼らには愚かしく思えるのです。というのは、自分のうちに聖霊をいただいている人だけが、聖霊のお考えを理解できるからです。
15 聖霊をいただいている人は、すべてを見抜きます。ところが、聖霊をいただいていない人は全く理解できないので、まごつき、とまどうのです。
16 いったい、どうすれば彼らに聖霊がわかるというのでしょう。彼らは、主の思いを知ったこともなく、それを主と論じ合ったこともなく、また、祈りによって神の御手を動かしたこともないのです。しかし驚くべきことに、私たちクリスチャンは、まさにキリストの思いと心を共有しているのです。
難しいようで、すごくわかる話です。
「イエスが十字架にかかられたのは私のためだった」とわかるのは、私の理解力ではなく、願望に近い気づきのようなものに感じますが、パウロは聖霊によると言います。
私には、イエスの必要性がポイントではありました。
人生がわりとうまくいっている時はイエスのことなど知ってはいても信じる気などさらさら無かったのです。
ところが、うまくいかなくなって、「お先真っ暗」になった時に言わば”イエスの方から入って来られた”かのように、福音を聞く機会が訪れて、すぐに信じました。
自分中心に見ると、「結局のところは”困ったときの神頼み”の激しい版か」と思えてしまうところはあるのですが、どうしてそこでイエスのあの福音を語る人が現れたのか、どうしてそれを即座に受け入れて信じることにしたのか、信じることにしてからすぐに人生ごとうねりを立てるように違う方向へと進んで本当に信じたのか。
タイミングとか状況とか実際に起きたことが、とても”たまたまやろ”で説明がつかないことが多すぎます。
神の目線でそのような私の過程を追ってみると、少しわかってきます。
神は、私の「時」を待っておられました。そして、完璧なタイミングでご自身の存在をあらわされたのだのだと。
それでも、理解は出来ても信じることが出来ない人が多い中で、私が信じることが出来たのは何なのか言えば、確かに、弱さのゆえだとしか思えません。
パウロがここで言っていることが、見えてきます。
それは、16節にある「キリストの思い」に副って行くという方向性からです。
神は、キリストは、極めて個人的な思いを、個人それぞれに持たれているはずです。
しかし、それだけではないというのが、この1コリの1~2章あたりでわかってきます。
また一つ、謎が解けてきたと感じていることがあります。
私にとって頭から離れがたい福音のことばは、実は、信じる30年近く前にやってきていました。「You are special」ということばです。
それは中学1年生の時に、米国から来ておられた宣教師によって語られたものです。
その人の話を聞く機会の冒頭、第一声がそれでした。
このことばは、深い意味はわからないけれども、私の人生を横断するように存在し続けて、「あなたは特別」であることの意味が今日もたらされたと感じています。
神にとって私は特別であるということです。
他の人比較してどうなのかはわかりませんが、神は、明らかに私にしかないご計画を持っておられるということです。
私が母の胎内にいた時から既に見ておられ、罪に明け暮れた人生の全場面、良い思いを持っていた時も全て見ておられ、そのような中でもご計画を進められているという確信に立っています。
恥ずかしいです。顔向けできません。神が私のあれもこれも全てを見ておられたとわかるので。しかし、それでも「ゆるす」と言われます。私のその”あれもこれも”のために、十字架で痛みを受けてくださったからです。
ずっと昔から続いてきた「キリストの思い」です。私は愛されています。
これって、聖霊から来る知恵によってわかるものです。
人間の知識では、絶対にわかりません。
わからなければならないことが、謎が解けていくように段階的に開かれていく。
そういう冒険のようです。
パウロは、その「キリストの思い」を「共有している」と言います。
このことは更に重要なことで、一人一人に特別な思いを持たれているけれど、それは、えこひいきではないということです。
人間と言う存在のバックグラウンドのように、キリストはその思いを全ての人それぞれに特別な思いをもたれている。クラウドのようですね。
だから、私は人の思いではなく、キリストの思いとして、その人たちを憎んだり嫌ったり敵対するのではなく、愛さなければいけないなあとわかってきます。
世には憎むべき重犯罪の犯人であったとしても、キリストは思いをその人にも持たれています。それを忘れるべきではありません。
あなたがもし、今日、クリスチャンでもないのに、偶然にもこれを読んでくださったのなら、それはキリストの思いから来るものかも知れません。
長い期間、キリストはあなたのことをちゃんと見ておられ、その存在を確かにするタイミングを見ておられます。今日、それを信じることをおすすめします。偶然ではないでしょう。
私がそうであったように、信じれば、人生がもっと実りあるものにする変わる可能性があります。