しかし、たちまち元に戻ってしまったのです。
彼らは神を無視して行動し、
14 もっとおいしいものを食べたいと注文をつけました。
こうして、もはや赦しを頂くことができない時点まで、
神の忍耐を試したのです。
15 主は欲しがるものをお与えになりましたが、
彼らの心を空虚になさいました。
16 人々は、モーセと、主が祭司に任命したアロンを
ねたんだのです。
17 そのため、大地は口をあけてダタンとアビラムと、
アビラムの友人たちをのみ込みました。
18 しかも、天から降って来た火は、
悪者どもを焼き尽くしたのです。
19-20 それは、彼らが栄光に輝く神より、
草を食べる牛の像を選んだことへの罰でした。
21-22 エジプトと紅海のほとりで
大きな奇跡をなさった神の顔に、
彼らは泥を塗ったのです。
23 神は、
人々を滅ぼそうとなさいましたが、
選ばれた人モーセが間に入ってとりなしました。
怒りを静め、人々を滅ぼさないでほしいと
神に嘆願したのです。
24 彼らは、神の祝福の約束を信じず、
約束の地に入ることを拒みました。
25 おのおのの天幕で口をとがらせ、嘆き悲しみ、
主の命令を全く無視したのです。
26 そこで主は、彼らを荒野で殺し、
27 その子孫を遠い国へ追い散らすことになさったのです。
28 そのあと私たちの先祖は、
ペオルでのバアル礼拝に加わり、
死人にまでいけにえをささげました。
29 こうして、神の怒りは極限に達し、
恐ろしい災いが下りました。
30 ピネハスが、災いを引き起こした張本人たちを
処刑すると、神の罰は収まりました。
31 このピネハスの適切な処置は歴史に残ることでしょう。
32 イスラエルはメリバでも主を怒らせ、
モーセを窮地に追い込みました。
33 そのため怒りに燃えたモーセは、
思わず軽率なことを口にしてしまったのです。
神を信じていても、神から離れた状態にあることを、多くのクリスチャンが体験していると思います。
良いもので満たされていた心が、いつの間にか空っぽになって、別の何かに占められてしまっている時のことです。
私にはあります。
イエスを信じてから起きたことですが、人生がみるみるうちに冒険のごとく変化が訪れて、その変化に慣れたと言うか、「ああこれは神様だなあ」ということが、驚きではなく普通に感じれられてきた頃でした。
そういう冒険自体が平気になって、私も大胆にあれこれを祈ってみる、試してみるで、活性していたのですが、いつの間にやら神不在の楽しみに浸っていったのだと思います。
とあることが、うまくいったその直後に、どん底に落とされるような出来事が起きました。戻って来る予定だった大金が、焦げ付きました。
そのことを前提として動いていたので、それによって全てのことが無駄になってしまうという状況でした。私はそこで初めて、自分の「神無き暴走」を自覚しました。
そして、もうそこからは、毎日嘆きの祈りでした。時間を見つけては祈り、祈り会に参加して祈ってもらいました。実際、多くの損失が出てしまいましたし、失敗や挫折は起きました。予定は大きく変更されました。
ただし、その中で研ぎ澄まされたのは、本当に神が与えたかったものは何だったのかということです。私側から見るとそれは、絶対に失くしなくなかったものは何なのかということになります。
それだけは残って、私は住む場所も仕事も教会も、全てが一新されることになりました。
イエスを信じて生きるということは、素晴らしい人生の大転換であることは間違いありません。
ただ神は、どのような時もイエスへの必要を、いつも維持させようとガイドされます。
それは、神の愛のあらわれであると共に、神に依存しなければ、この罪の体は何も変わらないことをわからせるためでもあると思います。
イエスは、女を淫らな目で見ている時点で、既に姦淫の罪をおかしていると言われました。
刑法上の犯罪が成立するには、”行動”であることを構成要素としています。
しかし、神の目には、”行動”ではなく”想像”であっても罪だと言われているのです。
「全ての人は罪を犯し・・・」と聖書は語ります。行動が無くとも、神はその行動を想像した心を見られているのですから、人は罪から逃れられません。
全ての人は罪人なのです。その心から行動が生まれてしまうのですから、神のその規定は、無茶苦茶なことではないのです。
そして、その神のガイドというのは、教育、努力、道徳、宗教活動によってもその心は変え難いものであることを教えます。
またそのことは、自分から出るどのようなものでも、根本的に、罪から自分自身を洗い流すことが出来ないことをも実感するのです。
神によってのみ洗われえること、イエスが十字架にかかられたことが、自分の罪のためであったことを実感していくのだと思います。
モーセは祈りによって民が滅ぶことを避けさせましたが、このことはイエスによってもたらされた救いとは違うものです。イエスによってもたらされるのは、永遠のいのちです。
自分が過去に体験したことが思い起こされましたが、このことは、余計なもので心が満たされることを避けなさいという警告でもあると思います。
本当に大切なものは何か、わずかなところを見極めて、悔い改め、求めてたい思います。