1 ヨセフ族が、くじで割り当てられた地の境界線は、東、エリコのあたりのヨルダン川、すなわちエリコの水から荒野に出、エリコから山地を上ってベテルに至り、

2 ベテルからルズに出て、アルキ人の領土アタロテに進み、

3 西のほう、ヤフレテ人の領土に下り、下ベテ・ホロンの地境、さらにゲゼルに至り、その終わりは海であった。

4 こうして、ヨセフ族、マナセとエフライムは、彼らの相続地を受けた。

5 エフライム族の諸氏族の地域は、次のとおりである。彼らの相続地の東の境界線は、アテロテ・アダルから上ベテ・ホロンに至り、

6 その境界線は、西に向かって、北方のミクメタテに出、その境界線は、東に回ってタアナテ・シロに至り、そこからヤノアハの東に進み、

7 ヤノアハからアタロテとナアラに下り、それからエリコに達し、ヨルダン川に出る。

8 西の境界線は、タプアハからカナ川に行き、その終わりは海であった。これが、エフライム部族の諸氏族の相続地であった。

9 このほかに、マナセ族の相続地の中に、エフライム族のために取り分けられた町々、そのすべての町々と、それに属する村々とがあった。

10 彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人は苦役に服する奴隷となった。

 

前章はユダ族についての領地分配から色々な考察をした

そしてヨシュア族、つまりマナセ・エフライム

後にイスラエルは南ユダと北イスラエルという南北分裂国家となるが

そこに向かう境目、対比が既にこの頃からあったのは間違いない

 

ただカレブがユダ族であるのに対してヨシュア自身がエフライムの出であることがここで対比的に記されている理由ではあるとは思う

 

ユダ族もヨシュア族も、神に従うことで与えられたものは大きいが、従いきっていない部分があることを、どう受けるかだ

両族とも当時の現地人を完全に聖絶せずに残している

まあ現時点では、これが分裂を招くことへの布石にな

てしまったのでは・・・と読んでおくべきなのかも知れない

 

特に焦点をあてるのは、従いきっていない、従いきれないことへのリスクだ

実際、それは私自身のことである

これほども朝から晩まで神様を考えてどうこう言ったりしているくせに、ある場面では見事神を”横に置いている”のだ

 

これ、QT的には「完全に従うことが出来るように聖霊様の傾注と満たしを祈りましょう」とするところなのかも知れないが、果たしてそれがブレークスルーになるだろうか

もちろん、祈りそのものはそうだろうけど、自分としてはそれを繰り返している事実と、聖書的にはそういう事例が山のように積み上げられている事実を受け止めておかなければならないと思った

 

立派なクリスチャンであれば、自分が従いきれていないことを点検しよう、ということになるだろうが、私の場合は、そんなことが多すぎて、逆に本当に自分が信じているんだろうか、と疑いたくなる程

しかし、神はそのように私をくじくためにみちびいておられるのではない

そうすると、そういう落胆のポイントにフォーカスするのではなく、むしろイスラエルがこれからどう進んだのかまでを自分の状況に当てはめて、ケーススタディしていけよ、とか、明日は我が身と心得よ、とか、そういう風にも聞こえる

 

もうちょっと目線を上げれば、先日の年齢についての話が含まれてくるが、神はそれでも用いられること、時があることを踏まえて、落胆して止まるのではなく、前進することの意義が見えて来る

罪は、罪であるから、それと戦わないわけにはいかない、無視できない

しかし、それで前進しないことは罪に屈することであり、やがて来る罪からの痛みを覚悟してそれでも進むこと、ここに本当の信仰があるのではないか、神への強い渇きがあることを教えられる

 

昔読んだ稲森和夫氏の本が思い出された

失敗を恐れないということは、目標実現への強い情熱から得られるもの、というような内容だった

これは知恵の領域、哲学的なところだが

霊的に、失敗を恐れないこととは、つまり罪に屈しないことではないかと

そのために、もっと神を求めて、もっと神を信じて、ひたすら進むことであるように感じた

想像しただけでものすごく渇いてくるが、きっとこの世で生きる上での信仰のクライマックスは、そのようにして迎えていく気もしている