1 この群集を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい

 

心貧しく、悲しみ、柔和で、義に飢え渇き、あわれみ深く、心がきよく、平和をつくり、義のためにののしられる者

 

イエスのこの教えを文脈で理解すると、塩気≒個人のアイデンティティがこのような者が、世を照らす光になると読める。

 

心が貧しい、とは何か。

概ね、自分が全て出来る者とするのではなく、神のめぐみによってこそ力づけられようとする者、とのこと。

これは、私は実際、大した何か素晴らしいものがあるわけではないから、実際問題として、そういう傾向はあるなあ。

 

悲しむ者とは何か。

これは以前、一番わからないことだったので牧師さんなどに聞いたり、色々と調べたりしたことがある。

自分を悲しむ者、ということがとりあえずの結論だったのだけれど、私は私なりの現時点での目線で、神がどのように思われているのだろうかと言う視点に立った時、単に、悲しみに暮れる者をその対象としているのでないか、と思う。

自分を悲しむだけではなく、悲しむことそのものということだ。

とすると自分は、確かに悲しい時はあるが、いつもそういうわけではないなと。

 

柔和か。

私は自分で言うのもおかしいが、柔和な性格ではある。

お人よしになるな、というのは、昔の上司からよく言われたことではあるが、柔和とお人よしはどこか似通うと思う。

ただこれも、常時そうではなく、柔和の正反対に怒りを露わにした記憶もある。

 

義に飢え渇いているか。

渇いてる。イエスの義、聖書の義、これはまだはっきりとこうだと言えるものではないのだが、世の中の大部分が”赦さない”という相互関係がますます強まっていると感じて余計に渇く。

 

あわれみ深いか。

あわれみ深い方だと思う。割と最近だが、あわれみの言葉を口にして何かを期待させることはむしろ傲慢だ、それなら何もしない方がいい、と言われて落ち込んだが、確かに、自己満足的なところはあると思う。

あわれみ深い感じの人間になりたいと思っているだけなのかも知れない。

 

心がきよいか。

きよくなりたいと思うし、きよめられているとも思う。

しかしこれも、自分で判断するのは難しい。「おれ、心きよいねん」と言ったら、笑われると思う。

ただ、私がクリスチャンになった理由は、結構これだったりする。「きよく」という志向性はずっと持っている。

 

平和を作っているか。

平和でいようとする傾向はある。

自分が歳を重ねてくると、祖母がそういう性格だったなあと思うことがある。

争いごとを嫌っていた。もしも自分が折れて争いがおさまるなら折れときなさい、というように教えられた記憶がある。

一方、別の誰かは、平和を作るとは折れることではない、と言っていたことを思い出す。

それには一応納得するが、自分の威勢を守ったまま平和を作るなんて、それこそ神のみわざだと思う。

そういう意味では、本当の実務は神にあるとは思うが、私自身は平和を望む者であることだけが、平和を作るということにつながることができる。

だから、祖母に言われたことというのは、案外的外れではない気がする。

 

義のためにののしられる者か。

その後に、弟子たちに言われたことを踏まえて考えると、ののしられたことはある。

イエスを話をすると、結構そういうことは簡単に体験できる。

 

自分が幸いであるかどうか、世の光となっているかどうかを一つ一つ検証してみたが、どれも完璧ではないものの、パートタイムではそのようであることが意外と多いなとは思う。

 

もしかすると、信仰の成長というのは、これが完璧に近づいていくことなのか、とも思う。どんな時もこれらの状態を維持しているということを完璧とするなら、それは多分なれないのではないか、と思う。

しかし、そういう方向に向かっていることが大事なのであり、そのことを成長と呼ぶのだろう。

 

人としてのイエスは、十字架にかかり、その後復活したことによって、世の光であり続けておられる。

かっこつけて十字架に上がられたのではなく、人間力を発揮して復活されたのではない。

このモデルをもっと知り、目指す方向を正確にしていくこと、そしてそこを目指して生きること。

それが、現状の答えだと私は思う。