ダビデは将校全員を集めて会議を開き、 2 イスラエルの全集団に呼びかけました。「あなたがたが私を王にすることを願い、また主がそれを承認してくださるなら、祭司やレビ人も含めてイスラエル全土にいる同胞に、すぐここへ集まれと伝えよう。 3 それから、神の箱を持ち帰ろう。サウルが王となってからは、ずっと放置したままなのだから。」
4 提案は満場一致で採択されました。
5 そこでダビデは、キルヤテ・エアリムから運び出される神の箱を迎えるために、エジプトのシホルからレボ・ハマテに至るまでの、全イスラエルを召集したのです。
6 ダビデと全イスラエルは、ケルビムの上に座している主なる神の箱を持ち帰ろうと、別名バアラともいう、ユダのキルヤテ・エアリムへ行きました。 7 神の箱はアビナダブの家から運び出され、ウザとアフヨが御する真新しい牛車に載せられました。 8 ダビデと全国民は、歌を歌い、琴、竪琴、タンバリン、シンバル、ラッパを鳴らし、主の前で力のかぎり踊りました。 9 ところがキドンの打ち場まで来た時、牛がつまずいたので、ウザは思わず手を伸ばし、箱を押さえました。 10 すると主の怒りがウザに向かって燃え上がり、ウザはその場に倒れました。 11 ダビデはこの出来事に憤慨し、その場所をペレツ・ウザ(「ウザへの怒り」の意)と名づけました。今でもそう呼ばれています。
12 あまりのことに、ダビデは主を恐れ、「どうして神の箱を私のもとに運ぶことなどできようか」と言いました。
13 それで、それをダビデの町に持ち帰ることをあきらめ、ガテ人オベデ・エドムの家に置くことにしました。 14 神の箱は、三か月間オベデ・エドムの家に置かれていました。その間、主はオベデ・エドムとその家族を祝福しました。
ダビデ期の印象的な出来事の中の一つがこの神の箱の迎え入れです。
こうして簡潔なかたちで読むと、全貌が見えてきます。
神は箱におられるわけではない、ということです。
ダビデはこのことをわかっていたからこそ、全会衆を集めて契約の箱を迎えようとしました。
箱です。お寺のような建物でもないし、像のようなものでもなく箱を信仰の中心に置こうとしたわけです。
あえて肉眼で見えるすものとするなら箱という形であるだけで、神は箱の中におられないことがわかっていたのだろうと思います。
ここは大事だと思います。
クリスチャンです、神を信じます、と言っていても、暮らしぶりとか心の状態の「良さ」を求めて、それが中心の信仰になってしまいがちです、私は。
しかし神は、箱の中に閉じ込められるお方でないことはもちろん、ご意向があり、私についてのご計画があり、それは私自身が考えているよりも遥かに良いものです。
ところが、当の私はそういうもの、です。これは、私なりの表現で「サウル性」と呼んでいますが、軍事力や王宮を中心として国を立てようとしたサウルに通じる部分です。
ダビデのように、箱を取り戻そう、と言う心にはなかなか向いていかない。
これが今の私と言えます。
ただ、ダビデはその箱を取り戻す方法では失敗していると、私は思います。
ウザの死については、色々なバージョンの説教を聞いたことがありますが、共通しているのは、神のルールに無頓着ということです。
豪華な牛車を用意し、賛美で力いっぱい踊って迎え入れようとしているにも関わらず、ウザは神のルールに反したばかりに死に至ったことは、ルール違反をしていたというより、ルール軽視から来たものだったはずです。
このことは後にはっきりとしてくるのですが、それを見せられているのが、この章です。
問題は何かと言うと。
まず神は箱ではありません。しかし、牛車もそれを扱ったウザも、箱の扱いをしました。そして、神のルールを軽視しました。そして神の怒りに触れました。
これ、善意であるなら神も良しとしてくださる、というありがちな神に対しての態度を、はっきりとあらわしたものだと思います。
神は絶対的正義者です。人間が良心を持つことを喜ばれはしても、それが罪のものであるかどうかは、神の基準によります。そして、罪に対しては一寸の妥協もなく罰するお方だということが、はっきりと表れています。善意であるかどうかではない、ということです。
神は人とは違います。神は人の心を見られますが、それでルール違反を犯すなら、必ず罰せられる方です。
ただ、最後にオベデ・エドムが神の箱があるというだけで祝福された出来事は、私には不思議です。まだ悟らされている何か、という感じです。少なくとも、招き猫を置いたら金運が上がった話ではないことは確かです。
私は神から祝福されたい者です。しかし、それは良心とか熱心では間違う可能性があるということだと思います。
私たちのガイドラインは、個人的な感覚ではなく、聖書です。これを答えとして、忠実に歩むことが大事です。
今日も適用が難しいですが、目的は良かったけど手法がまずかったダビデ、目的も手法もあまり関係なくただ受け入れたオベデ・エドムの対比がポイントです。
ウザが死んだあと、オベデ・エドムの箱の受け入れは、恐れが伴っていたように思います。それでも受け入れたオベデ・エドムを祝福された、と読むのが今の私には自然です。これを見て後にダビデも悟ります。ただ受け入れたことが大事だったということです。少しだけ危険が無いように解釈するなら、神の正義、聖を受け入れてるとともに、神の良さ(Goodness)も受け入れているということかと思います。別々の神ではなく、同じ神に起きていることです。