121 どうか、私を敵のなぶりものにしないでください。
私は正しいことを行い、
いつも公平であったからです。


122 私を豊かに祝福してください
思い上がった者どもの攻撃から、
この身を守ってください。


123 いつあなたがお約束を果たして、
救い出してくださるのかと、
一心に見つめてきた私の目は、
すっかりかすんでしまいました。


124 主よ、優しく私を取り扱い
このしもべに従順を学ばせてください。


125 どうか、あなたにお仕えする身である私に、
すべての点であなたの規範に照らして考える知恵を、
お授けください。


126 主よ、どうか今、行動を起こしてください
悪者どもが、あなたのおきてを破りましたから。


127 一方、私は、あなたの戒めを純金より慕っています。


128 あなたのおきては、どれを取っても正しいのです。
この道以外に慕うべき道はありません。

129 あなたのおきてはすばらしく、
私は何のためらいもなくそれを守ります。


130 あなたのご計画が明らかにされると、
それは心の鈍い者にさえ理解できるのです。


131 私は、あなたがどんな戒めを下さるか、
とても期待して待っています


132 あなたを愛する者にいつもかけてくださるあわれみを、
そばに来て、私にもかけてください。


133 悪に打ち負かされることのないように、
どうか、そのおことばで導いてください。


134 悪者どもの虐待から、救い出してください。
そうすれば、私はあなたにお従いすることができます。


135 愛情のこもったまなざしを注ぎ、
すべてのおきてを教えてください。


136 あなたのおきてが平気で破られる現状に、
私は涙をこぼしています。

 

文脈から離れて、そのフレーズに親しむみことばって私にはあるのですが、その一つは「大胆に神に近づく」です。

エペソ3章に登場しますが、文脈で捉えることがとても重要で力のあるみことばに違いないのですが、私の場合はなかなかそこまでいかず、フレーズで親しんでいるみことばとして思い起こされました。

 

というのは、日本語に訳されているからかも知れませんが、著者の祈りは、どことなく厚かましさを感じられるほど、神に求め近づいていると思ったからです。

 

ただし、その厚かましさというのは、神をなめてかかっているものとは真逆で、信じて、賛美し、見上げて、むさ苦しいほどの求める心から出るものです。

私はこれを「大胆に近づく」ということなのだなあ、と思ったのです。

 

そして、それは何もこの著者が、完全無欠の仙人のような信者であるからとか、そういうことではないでしょう。

罪がありながらも、自分が神を慕い、自分が神を愛しているからと言う情熱や渇望で近づいていることがわかります。

 

自分を制することとか、自分を戒めることとか、自分、自分、自分で自分を閉じ込めていくことを、「慎ましい」と表現されたりします。

悪いことではないと思いますが、私は罪人だからそんなことを神に願う資格はありませんとか、まずは自分の態度から改めますとか、自分が自分を何とか出来るという前提に立ってしまうなら、それは結局、自分が救いようのない罪人であることだけを知り失望で終わります。

 

しかし、そのようにして自分にばかり焦点をあてるのではなく、むしろ自分を忘れて神にのみ焦点をあてる時、私はこの今日の祈りが出て来るのではないかと思います。

心を開くということも言えるかと思います。

罪があるとわかっていながら、そのまま神に近づく大胆さです。

 

今日は無理に適用を考える必要はないと思います。

この大胆さで神に祈っていきます。