65 主よ。お約束のとおり、
私は十分に祝福を頂いています
66 どうか、知識だけでなく、
正しい判断力をも与えてください。
あなたの戒めは、案内の杖です


67 あなたに懲らしめられる前には、
私はよく迷い出ました。
これからは、おことばにはすべて従います。


68 あなたは情け深く、いつも恵みを注いでくださいます。
どうか、従順にならせてください。
69 思い上がった者どもは、
私について根も葉もないことを言いふらします。
しかし、私はただひたすら、神のおきてを守ります。
70 彼らの良心は麻痺しています。
私は冷静に、あなたにお従いしています。
71-72 あなたから懲らしめを受けたことは、
この上ない幸いでした。
私はそのおかげで、
おきてに目を向けることを学びました。
このおきてこそ、金や銀より価値あるものです。

 

先週までQTでエゼキエル書の後半部分を読んでいましたが、あれは、イスラエルからすると神の「懲らしめ」にあたるフェーズから回復への過程に関わるものでした。

 

私はそれをあえて、人類歴史の中での「懲らしめ」であるとも感じました。

同じ構造で起こる可能性を感じたからです。

再びイエスが来られる時というのは、最後の懲らしめなのかも知れないなと。

 

そして今日、この著者が祈るのは、個人についての神の懲らしめです。

しかし、やはり構造が同じであることがわかります。

エゼキエル書では「わたしが主であることを知る」というみことばが連続しますが、この著者は懲らしめを通して、神に従うこと、おきてに目を向けること、を学んだと言います。それは、主が従うべきお方であることを知ったとも言い換えることが出来そうです。

 

ヨブが受けた悲惨な苦しみは、懲らしめではなかったかも知れません。

ただ、義人ジョブが、主が主であることを知る、主を更に知っていくためには通らざるを得なかった、理不尽で猛烈な苦しみであったことがわかります。

神が義人とされているのに、誰よりも理不尽な苦しみを受けるって、一般常識的に捉えると、どうゆうことよ、となりますが、神とはそういうお方ということです。

 

9.11の時にマッド・レッドマンが作成した賛美、Blessed be Your Nameは印象的です。ヨブ記を用いていますが、その中で You give and take awayという一節があります。「主は与え取られる」。われわれ人間はその中を生きています。

そうすると、神を求めること、いや、苦しみの中でこそ神に叫び求めることが、どれほど大事なことかを思い知らされます。

だから、義人は大きく取られたわけです。

 

詩編に戻りますが、この著者が叫び取り戻したものが「おきて」であったことは、今日の私にも関係していることです。

昨日私は「おきて」をみことばそのものと考えてよいかも、としたのですが、みことばを取り戻し、自分のものとする、まで含んできそうです。

懲らしめによって、自分のものと出来る、神が共におられることを知る、わけです。

そして、彼はそれを「幸いだった」と言っています。過去形です。

 

懲らしめを受ける。懲らしめを懲らしめとわかって受けるならまだよいのですが、本当の懲らしめというのは、神への嘆き、神への一時的な不信を伴うほどのものでしょう。しかし、それは、主が主であられることを知るため、神に叫ぶためであることをしっかりと覚えておきたいと思います。振り返って知ることになるはずです。