49-50 神に仕えている私への約束を、
お忘れにならないでください。
それこそ頼みの綱なのですから。
困難なとき、どれほど力づけられたかしれません。
全く息を吹き返す思いでした。


51 おごり高ぶる者どもは、神に従う私をさげすみますが、
私は動揺しません。
52 幼いころからずっと、
私はあなたに従おうと心がけてきました。
あなたのおことばによって、いつも慰められてきました。


53 あなたの命令を無視する者たちに、
私は怒りを覚えます。
54 あなたのおきては、
地上の人生の旅路にある私にとって、
喜びと歌の原動力なのですから。


55 ああ主よ。
私は夜でもおきてを守り、あなたに思いをはせます。
56 常にあなたに従うことが、
どれほど祝福であったことでしょう。

57 主は私の大切なお方ですから、喜んでお従いします。
58 私はひたすら祝福を求めています。
どうか、お約束どおり、私をあわれんでください。


59-60 私は、知らないうちに誤った方向に
進んでいる自分に気づき、
あわてて引き返し、神のもとに駆け戻りました。
61 悪者どもは、私の首に綱を巻き、
罪に引きずり込もうとしました。
しかし、私はあなたのおきてに守られています。


62 真夜中に私は起きて、
こんなにすばらしいおきてを
授けてくださったお方に感謝します。


63 主を信じて従う人は、だれでも私の兄弟です。
64 ああ主よ。大地は恵みであふれています。
正しい道をお教えください。

 

「約束」という言葉が使われています。原典をあたると、これは「みことば」に置き換えることが出来そうです。

「おきて」もこの祈りでは連続して出てきますが、私はこれも「みことば」と考えても差し支えないかと感じます。「あなたの命令」もそうですね。

ヨハネの福音書冒頭で、「ことばは神」の言及が思い出されます。聖書のみことばそのものが持っている希望、期待感、アンカー、そしてこの著者は「頼みの綱」と言っていますが、「まさに!」です。「困難な時に息を吹き返した」ともあります。これも「まさに!」です。神が共におられるということです。

 

みことば暗記ということを、以前はよくやりました。

確かにそれは生きているのですが、最も生きている暗記は、実は福音伝道のトレーニングを何度も何度も受けているうちに得られたものです。

実際にそれを自分から発することも併せてやっているうちに、つまり、何度も繰り返しているうちに、自分のものになっていったのです。

私はこのことを、とても感謝しています。自分がずっと伝道されているようなものです。

 

そしてそのみことばが、約束と訳されていることは、大きな祝福を受ける思いです。

ダビデは詩編23編で、「主はわが羊飼い」と言い、「たとえ死の影の谷を歩く時も恐れません」と告白しました。

そして、キリストはその方が約束そのもののお方です。ヨハネの福音書3:16

今、私が聖書を通して見える最終的な約束は、黙示録21に記されるところです。天から「新しいエルサレム」は現実の世界のこの地に来るのだと。涙はぬぐわれますし、悲しみもない、永遠のいのちのあらわれです。

この詩編119は、長い祈りとして有名ですが、この祈りの中ではまだ霧がかっているはずの約束が、まるでわかっているように祈られている気がします。それは、「永遠のいのち」のことを世間一般は"宗教"で括り"幻想"とか"妄想"と結論づけがちですが、それに「私は同様しません」と言っているように思えるからです。

 

この期待感は何でしょうか。今日のみことばからいつもの如く大外れして、色々なみことばを思い出す時間になったのですが、これらの約束は守られることを期待として受け止めることが出来ます。

バプテストジョンの母、エリサベツの言葉を私はとても慕っています「主のことばは必ず実現すると信じ切った者は幸い」。

思い込みでは無理です。何が何でも自分に言い聞かせることも無理です。何の根拠もなく「新しいエルサレムが地上に実現する」「永遠のいのちが与えられる」と1日千回言ったとしても、「信じ切る」ことは出来ません。それを約束している方を信じることが出来なければ、約束による結果だけを受け取ることなど出来ないはずです。

約束してくださる方を信じる、信じ切る、ということです。

私はここに聖霊の働きを感じます。

 

今日、それを信じる者として、恐れずに、焦らずに、ただ期待だけを持って、つまり、みことばを携えて生きようと思います。主は頼みの綱、主はあわれんでくださる。期待とともに感謝も持ちたいと思います。