主のおきてを完全に守る人は幸いです。
2 主を探し求め、常にそのご意志に従う人は幸いです。
3 そのような人は、悪と妥協することなく、
主の道をひたすら歩みます。
4 あなたは、守るべき戒めを与えてくださいました。
5 私はそのおきてから少しでもそれないでいたいと、
心から願っています。
6 それができれば、いつも良心はすみきって、
恥じることもないでしょう。
7 あなたに懲らしめられたら、
私はあなたに喜ばれる生活をして、
感謝の気持ちを表します。
8 私はあなたに従います。
どうか私を見捨てず、
私が二度と罪の中に落ち込まないように
導いてください。
9 どうすれば、若い人は身も心も
きよく保つことができるのでしょうか。
あなたのおことばを読み、その規範に従うことです。
10 私は、あなたを見いだそうと、
あらゆる努力をしてきました。
どうか、御教えからはみ出さないよう守ってください。
11 私はおことばを深く味わい、心にたくわえました。
それによって罪から遠ざかるためです。
12 主よ、あなたの規範をお教えください。
13 私はあなたのおことばを暗唱し、
14 宝よりも大切にしました。
15 あなたの戒めをかみしめて味わい、
心からの敬意をはらいます。
16 あなたのおきては私の喜びであり、
常に忘れることがありません。
主のおきてに従う、戒めに従う、主の規範に従うこと。
これが繰り返されています。
主のおきてとは何か。詩編に歌われる時代には律法であるとは思います。
私は時々思います。
もし、あの律法を完全に守ろうとしたら、最も良い方法は、ほとんど何もせずに暮らすことだと。抵触しないことを目的に生きることになるのではないか、と。
しかし、それでも全ては守ることが出来ないものです。そうすると、極端に言えば、罪しか行わない人生を送ることになります。
神無き律法順守とでも言えそうですが、それが神の望んでおられることではないでしょう。
そして著者は、あなたに懲らしめられたら・・・と言っていますから、既に完全ではないことを悟っています。よって、ただ法としての律法を守ることを、神のおきてを守ること、とはしていないようにも思えてきます。
イエスは、新しい律法として弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と教えました。「わたしがあなたがたを愛したように」です。
私には、まずこれですね。これは規範であり戒めでもります。互いに愛し合うというのは、一人では出来ないことです。愛さない、という罪をおかさないことではありません。イエスに愛されたように愛す、それは何かを求めながら、自分ではなく兄弟たちにそのようにする、「姿」のことではないかと思います。
先々週に病のことを祈り課題としてスモールグループの中で告白しました。
祈られる必要を感じているからです。その中で、私は愛されるということを経験しました。それは、私が愛したから返って来るものではありませんが、そういう一種のエクスチェンジ感はある気はします。
もし誰か、病の悩みにある兄弟がいたら、私は真剣に祈って回復を神に願いことでしょう。
ここで著者が言う「あなたが喜ばれる生活」は、そのような側面があるのかも知れません。
今日のみことばからは、ルールを守る事、にしたいと思います。
法律を守ることというのは、十分に聖書的ですし、神に栄光を帰すことにもつながります。クリスチャンとして、誇らしく順守者になりたいと思います。