それから、その人は私を神殿の入口に連れ戻しました。見ると、神殿の下から東に向かって、水が流れ出ているのです。水は祭壇の右側、すなわち南側を通って流れていました。 2 私は北の門を通って塀の外へ連れて行かれ、東の門へと回らされました。見ると、水は東の門の南端を流れていました。
3 その人は流れに沿って測りながら東に進み、一千キュビト行ったとき、その流れを渡るように私に命じました。水はくるぶしまでありました。 4 さらに一千キュビト行くと、また、渡るように命じられました。今度は、水はひざまでありました。 5 それから一千キュビト行くと、水の深さは腰までになりました。さらに一千キュビト先へ行くと、もう泳がなければ渡れないほどの川となっていました。深くて、とても歩いて渡ることはできなかったのです。 6 その人は、今見たことをよく脳裏に刻み込んでおくようにと言って、私をその川の岸に沿って連れ帰りました。 7 すると驚いたことに、川の両岸にたくさんの木が茂っているではありませんか。
8 その人はこう言いました。「この川は東に流れて、砂漠地帯とヨルダン渓谷を通って死海に注いでいる。こうして死海の塩分の多い水を浄化し、新鮮な水に変えるのだ。 9 この川の水に触れるものはすべて生き生きとする。魚が住める水に変えられるので、死海にも魚がいっぱいになる。この水が流れ込む所はどこでも、すべてのものが生かされる。 10 南はエン・ゲディから北はエン・エグライムに至るまで、死海の沿岸で漁師が漁をするようになる。岸には一面に網が干されるようになる。魚の種類も、地中海の魚と同じくらい豊富になる。 11 だが、沼地や湿地は相変わらず塩水のまま残される。 12 川岸にはあらゆる種類の果樹が茂り、その葉は枯れず、落ちることもなく、いつも実がなっている。毎月、必ず新しい実がなる。神殿から流れ出る水で潤されているからだ。その実は食物に、葉は薬になる。」
Are you thirsty?
Are you empty?
Come and drink these living waters
Tired and broken
Peace unspoken
Rest beside these living waters
この賛美をすぐに思い出しました。神殿から流れ出る水もまた聖書の中の"waters"の一つだという理解でよいと思います。
もちろん、その水は色々な水の種類の一つではなく、神から流れ出るいのちの水、ただそれだけを指すことは間違いありません。
考えてみれば、水は聖書中で普遍的な意味を持っています。
洗い、飲み、育む、それが水道水によって成されるのとは違い、神の水は浴びるなら罪を洗い流し、取り込むならいのちを取り込む。そのようにイメージして良いはずです。
その意味で、今日のみことばは、とても希望に溢れるところです。
「その人」は相変わらず精密な計測によって、エゼキエルに川を渡らせるところ指定しています。
これは、このいのちの水もまた、一人の個人にも正確に与えられる計画がなされていることなのかなあ、と思いました。
今、いくつか、心にしんどさを抱えています。
これらが共通しているのは、自分ではどうにも出来ないもの、神に祈ること以外に解決の道は無いもの、です。
失望でしょうか。正直、ある時はそのように感じることもあります。しかし、失望が希望の前にあることは、聖書のルールのようなものです。
失望のところに、希望の水よ、流れ込んでください。この祈りが私に溢れてきます。
今、失望を前にして、私にできること、または全ての人に出来ることは、まずは神を信じて、ここに固く立つこと。
そして、失望を精神論で希望に変貌させる必要はなく、失望がある心のままで、ただ神の前で静まることだと思います。みことばに触れ、黙想し、祈る。
行い、というのは確かに大事ですが、行い続けることが信仰というわけでもないと思います。私にとって、今は静まる時。自分のリアクションまかせではなく、持論や精神論でもなく、神の水が流れ込むのを「待つ」、とにかく「待つ」ではないかと思いました。
水は、低い方に流れるものです。キリストの謙遜が教えられる時なのかも知れません。