主がこう語ります。「君主がその子に土地を贈与するなら、その土地は永遠にその子のものとなる。 17 しかし、奴隷の一人に贈与した場合には、彼が自由の身とされる七年目ごとの解放の年まで、彼のものとなるだけである。その後、その土地は君主に返される。永続するのは息子に贈与されたものだけだ。 18 また、君主は力ずくで人の土地を取り上げてはならない。その子には自分の土地を与えなければならない。わたしの民が土地を失って、追い出されるような事態になることをわたしは望まないからだ。」

19-20 そのあと、私は正面の門のわきの出入口を通って、北側の、祭司たちの部屋が並んでいる所に連れて行かれました。部屋の並びの西の端に、料理場がありました。私を案内した人の説明によると、そこは、祭司たちが罪過を償ういけにえや、罪の赦しのためのいけにえを煮たり、穀物のささげ物の小麦粉を焼いてパンにしたりする所でした。そうしたのは、いけにえを外庭に持ち出して、一般の民を聖なる者とされた仲間に加えるようなことを避けるためでした。

21-22 それから、私は再び外庭に連れ出され、その四隅に連れて行かれました。四隅には、それぞれ縦四十キュビト、横三十キュビトの、壁に囲まれた庭がありました。 23 壁の内側にれんが製のかまどが並んでいて、調理ができるようになっています。 24 その人は、「この庭は神殿で祭司を助けるレビ人のもので、人々が持って来たいけにえを料理する場所だ」と話してくれました。

 

君主に関しての規定が結構な頻度で登場するのですが、この辺はかなり繊細かと思います。イスラエルは国王によって滅びたと言ってもよいからです。

私の中でも、この聖書を巡る「冒険」の中で、とても重要なところだと感じているのが、サウルから始まる王政時代のイスラエルの歴史です。今でもダビデはイスラエルの象徴的王として語られる一方、それから出て来る他の王たちの大多数が偶像礼拝し、イスラエルの民を神から離す方向へとみちびいたと言えます。そして滅びました。

 

ここでエゼキエルに指図されている、君主の規定は、国家、国民の管理者ではあるけれど、所有者ではないことを示されています。

特に、今日の「わたし(神)が望まないから、〇〇してはならない」という論法で語られているところは、神が王であること、その御心を国家として執行することの役割を鮮明にしていると思ったからです。

この感覚というのは、とても大事なことだと思います。所有者、オーナーは神です。

 

今日のみことばからは、私物化を避ける、こととしました。

自宅での仕事が多くなっているのですが、特に時間の私物化は際限なく起きることを自覚しています。

まずはここをしっかりしたいと思います。厳格にすることではなく、そういう私物化している意識を持って、与えられた自由の範囲で自由にすることです。

もう一つは、神の所有です。私自身がまずは神の所有であること、買い取られた者である事、君主が国の管理をまかされたように、私は私自身を管理することをまかされています。まるで自己分裂のようですが、その認識でよいかも知れません。

 

というのは、一昨日に受けたある詳細な検査の結果、かなり重い診断となりました。

私が私自身の体の管理を怠っていたからそのような病気の診断をされるに至ったか。

これは、そうとも言えるしそうではないとも言えます。ただ、責任だけは私にあったところが、今日のみことばから示されているとは思います。

これまでのことについては、既に形となって結果が出てしまいました。

しかし、これからも責任は続くわけですから、神の所有である自分とそれを管理する自分にしっかり分裂して、管理を進めます。