しかし、レビ部族でもツァドクの子孫だけは、イスラエルがわたしを捨てて偶像に走った時も、祭司として神殿における務めをはたしていた。これからは、この者たちがわたしに仕える者となり、わたしの前に脂肪といけにえの血とをささげることになる。」神である主がこう語るのです。 16 「彼らがわたしの聖所に入り、わたしに近づいて、わたしに仕え、わたしの命令を守るのだ。
17 彼らは門から内庭に入るとき、亜麻布の服を着なければならない。内庭や神殿で務めをするときは、毛織物を着てはならない。 18 亜麻布のターバンをかぶり、亜麻布のズボンをはかなければならない。汗をかかないようにするためだ。 19 外庭に出るときには、わたしに仕えるために着ていた服を脱ぎ、それを聖所の部屋にしまって、ほかの服を着なければならない。祭司以外の者が聖所で着る服にうっかり触れて、聖なる者とされることがないためである。
20 祭司は髪を長く伸ばしすぎても、そり落としてもいけない。適度に刈らなければならない。 21 祭司はだれでも、内庭に入る前には、ぶどう酒を飲んではならない。 22 結婚するなら、ユダヤ人の処女か祭司の未亡人とすべきである。離縁された女と結婚してはいけない。 23 祭司はわたしの民に、聖と俗、善と悪との区別を教えなければならない。 24 祭司は、人々の争いを収拾する裁判官ともなる。その裁定は、わたしの律法に基づいていなければならない。祭司自身が、すべての聖なる祭りにおいて、わたしの律法と規定に従い、また、安息日を聖なる日として守らなければならない。
25 祭司は、死体に近づいて身を汚してはならない。ただし、両親、子ども、兄弟、未婚の姉妹の場合は例外で、そのときは近づいてもよい。 26 その場合、身をきよめる期間として、普通よりさらに七日間待ち、それから神殿での務めに就くことができる。 27 再び務めに就くために内庭や聖所に入る最初の日に、その祭司は、まず自分のために罪の赦しのためのいけにえをささげなければならない。」神である主がこう語るのです。
28 「祭司は私有財産を持ってはならない。わたし自身が彼らの相続財産だからだ。それで十分である。 29 彼らの食物は、穀物のささげ物や罪の赦しのためのいけにえ、罪過を償ういけにえなど、人々が神殿に持って来たささげ物やいけにえである。主にささげられる物は何でも、祭司のものとなる。 30 あらゆる果実の初物や主にささげられたすべての物は、祭司のものとなる。穀物の初物も祭司に贈られる。そうするなら、わたしはあなたがたの家を祝福しよう。 31 祭司は、自然に死んだ鳥や動物、あるいは他の動物に殺された鳥や動物の肉は、絶対に食べてはならない。
レビ族までもが偶像礼拝に走っていた王国のイスラエルの末期においても、神殿の職に忠実に仕えていたのがツァドク系の人たちだったと。
私がここでまず黙想めぐらせたのは、神殿での仕事に忠実だったのか、信仰があったのか、というポイントです。
イスラエル、ユダの偶像礼拝による背きはひどく、祭司まで腐敗し切っていたわけです。そういう中では、信仰が無ければ神殿での仕事を忠実にやり遂げられるはずがない、というのが私なりの結論です。
そういう中だからこそ、はっきりと行いに現れ、際立っていたとも言えます。
ここで自然とヤコブ書「行いのない信仰は死んでいる」というみことばが思い起こされます。行いによって、救いがもたらされるのではないのだけれど、信仰は、行いというか生き方として結実していくものであることが数多く証されています。
このツァドク系の言わば”生き様”が、私にはチャレンジです。
信仰はありますが、それが生き様になっているか、生き様になっていなければ信仰が無いのか、そういう堂々巡りではありません。
神が今、聖霊の力によって変えてくださることを望みます。信仰が生きる人生になるように、信仰が生きる今日になるように、家での態度や言葉、仕事での態度、人間関係など、神を信じることが言動にあらわれるよう、心から祈ります。