彼が私を東の門に連れ戻ると、門は閉ざされていました。
2 主はこう語りました。「この門は閉ざされたままにしておく。開けてはならない。だれもここから入ってはならない。イスラエルの神である主がここから入ったからだ。だから、この門は閉じておかなければならない。
3 ただ王だけが君主として、門の内側に座って、神の前でパンを食べることができる。だが、その王も、門の玄関を通って出入りしなければならない。」
4 それから彼は、私を北の門から神殿の正面に連れて行きました。目を上げると、神殿が主の栄光にすっかり包まれているではありませんか。私はただ地に顔をすりつけるように、ひれ伏すばかりでした。
5 すると、主はこう語りました。「人の子よ。細心の注意をはらって、わたしの言うことを心に留め、しっかりと目を開き、耳を傾けなさい。主の神殿の規定と律法を教えるから、聞きもらさないようにするのだ。神殿に入ることが許される者と、許されない者とをはっきり区別しなさい。 6 反逆のイスラエルの民に、神である主はこう語る、と言いなさい。ああ、イスラエルよ。
おまえたちは、なんとひどい罪を犯してきたことか。 7 わたしにパンと脂肪と血をささげるとき、わたしの聖所に、割礼も受けず、神に従う心を全く持たない者たちを入れるとは、どういうことか。ほかのもろもろの罪に加えて、あなたがたはこうしてわたしとの契約を破ったのだ。
8 またあなたがたは、わたしが与えた聖所での聖なる務めについての規定を守らなかった。その大切な務めをさせるために、わざわざ外国人を雇っていたのだ。」
9 神である主はこう語ります。「あなたがたの中に大ぜいいる外国人で、割礼を受けておらず、主を愛していない者は一人もわたしの聖所に入らせてはならない。
10 また、レビ部族の者でも、イスラエルが神から離れて偶像に走った時、わたしを捨てた者たちは、その不誠実をきびしく罰せられなければならない。 11 彼らは神殿警備と門衛の務めに当たり、焼き尽くすいけにえの動物を殺し、民に仕えるべきだった。 12 それなのに、ほかの神々を礼拝するように民をそそのかし、恐ろしい罪に引きずり込んだ。」それゆえ、神である主はこう語ります。「わたしは手を上げて誓う。彼らは罰を受けなければならない。 13 彼らは祭司として仕えるために、わたしに近づいてはならない。神聖な物にさわってもいけない。自分たちが犯したすべての罪の責任をとらなければならないからだ。 14 今後、彼らは神殿の管理人として、神殿で行われる各種の行事を管理し、人々を助ける務めに当たるのだ。
イエスに関しての記録の中で、最も好きなところの一つは、復活されたイエスがマリアたちに「おはよう」と言ってあらわれたことです。
神が人となって来られたイエスは、他の人の罪を洗い流すために十字架の上であまりに壮絶な死を遂げたあと、3日目にはいのちを復活されて、大きな岩で塞がれた墓から出たあと、「おはよう」という挨拶をもってまた人前にあらわれてくださったこと。
とても、カジュアルなことばですが、ここに神の聖を見る思いです。
これはあくまで私の考えに過ぎないのですが、このイエスからカジュアルさは、人から神への近づきが許された証であったようにも思えます。
今日のみことばの最初部分を読んだ時、神は本来、決して近づくことが出来ない聖であるのだなと思いましたが、イエスはその壁を取り除けてくださった、つまり、動物のいけにえではなく、イエスご自身によって与えられた赦し→罪人を義としてくださる祝福の大きさと尊さを感じずにはいられないところです。
「信じる者は救われる」という言葉を軽々しく言う人もいますが、この神を信じる者、人間の究極的で全般的(言葉が見当たらず)願いである救いに至らしてくださるのは唯一この神であるという全幅の信頼を置く者は、神との遮蔽物が取り除かれるということです。その軽々しく言われる「救われる」とは、イエスの犠牲によってもたらされ得るとんでもない祝福です。
エゼキエルは、神殿が神の栄光に包まれているところを見てひれ伏しました。私はこれが、神に対して傍観者ではなく、信じる者の普通の反応だと思います。もしも人の基準(のようなもの)に当てはめるなら、この神殿の超精密さに現れているものがその聖でしょうが、神の栄光がそこにあらわれていることによって、神殿が完成していることになります。
さて、今日もその神の聖と、そこに今はイエスによって近づくことが許される特権を強く覚えているのですが、一つ重要なことが述べられています。
神殿に入ることが許される者と許されない者の区別です。これ、信仰がある者と信仰が無い者を分ける印として「割礼」の有無を神は言われているのですが、新約でそれに相当するのは「心の割礼」です。
妙な謙遜で「私には心の割礼はされているだろうか、頑張らなければならない」などと言うことは私は思いません。
ただ、この心の割礼は、信じたからそれでもたらされるもの、というわけでもなさそうです。
ここが今日のポイントです。
「外国人」というのは、民族の問題ではないのは確かです。ルツやラハブは外国人です。その末裔として生まれてこられるのがイエスです。
このことから、レビ人への言及になっていくのですが、ここに答えがあるように思いました。
レビ人は、本来神殿での聖なる祭司職として「聖別」された、言わばイスラエルの霊的中心であったのに、それを放棄して神から人を遠ざける役割を果たしてしまいました。それによって、イスラエルの中心を滅ぼされたとしても過言でない気がします。
神はそれでも、新しい神殿においても、管理を仕事をレビに与えられています・・・・・・・・・・・・
今日の適用は、人を罪にみちびかない、ということです。
これは、祭司がその職を失う大きな罪であり、これによって滅びに至るわけです。
人を罪にみちびかない、の逆は、人を悔い改めにみちびく、です。これに逆らわない、ということでもあります。
今日、これを心に置きます。