そのあと、その人は外塀を回って、私を東の門に連れ戻しました。 2 すると突然、イスラエルの神の栄光が東の方に現れました。その近づく音は激流のとどろきのようで、その全光景が栄光に輝いていました。 3 その光景は、私が最初にケバル川のほとりで、次にエルサレムで、神がその町を滅ぼすために来られた時に見た幻と同じでした。私は顔を地にすりつけるようにして、ひれ伏しました。 4 主の栄光は、東の門を通って神殿に入って行きました。
5 それから、私は御霊によって引き上げられ、内庭に連れて行かれました。神殿は主の栄光に包まれていました。
6 すると、神殿の中から主が私に語りかける声を聞いたのです。神殿を測っていたあの人は、まだ私のそばに立っていました。 7 主はこう語りました。「人の子よ。ここはわたしの王座、わたしの足台、わたしが永遠にイスラエルの民の間に住む場所である。民も王たちも、無節操にほかの神々を礼拝したり、王たちの墓を拝んだりして、わたしの聖なる名を汚すことはもうしなくなる。 8 彼らはわたしの神殿のすぐわきに、塀一つ隔てただけで偶像の宮を建て、偶像を礼拝していた。このような悪行によって、わたしの聖なる名を傷つけたので、わたしは怒って彼らを滅ぼした。 9 さあ今、その偶像や王たちの墓を取り除け。そうすれば、わたしは永遠に彼らの間に住もう。
10 人の子よ。おまえに見せた神殿の光景を、イスラエル国民に描きなさい。神殿の構造や造りを教えるのだ。そうすれば、彼らも罪を恥じるようになるだろう。 11 もし彼らがほんとうに自分たちのしたことを恥じるなら、そのときには、戸や入口などの構造を細大もらさず説明しなさい。守らなければならない命令や規則を、みな書き記すのだ。 12 きよさこそ神殿の生命である。神殿が建っている山の頂全域がきよいのだ。これこそ、神殿についてのおきてである。
主が来られました。栄光です。これがエゼキエル書の”極み”、至るべきところと言えるのではないでしょうか。
というのは、同じ神が戻られるということです。イスラエルの民が偶像礼拝から立ち直れないことでさばかれた神と、悔い改めるイスラエルに対して回復をもたらす神の栄光は、同じものだということがわかります。
神を信じて生きていくことにはステージがあるように思います。これは私にとっても大事なステージに入っているはずです。
この神は優柔不断で時に怒り、時に優しい一貫性の無いお方ではなく、永遠に影の無い栄光のお方です。
私がどれほど罪深くあっても、時に神に強く向かって悔い改めたり、神に従いたい思いで満たされる時も、世の中の慣例に従ってしまう時にも、神は、神の栄光は何の変化もない全能によって、近づく者をみちびかれているということです。
イスラエルに対するこの怒りや慈しみは、人の間では歴史という形で見えるものとなっていますが、それと同じスケールで私個人、信じる者個人に対してもみちびかれていることを覚えるべきだと、私は感じます。
ご自分の聖なる場所、ではなく、聖そのものとして神殿を事細かに指定しておられるのは神です。そこに戻られるということは、クリスチャン個人にとってはどういうことなのか、これは信じていればわかると思います。
新約聖書のはじまりは「はじめにことばがあった」です。このことばは、私と共に住まわれている聖であることを、おそれをもって知らされる思いです。
今日の適用について悟るにあたり、最も強いみことばは9節「取り除け」です。
取り除くべきものは沢山あります。その中でも今日、取り除くことによって神が共に住んでくださるものは何か、です。
それが知らされるように祈りながら、今日の活動をはじめたいと思います。