17 それから私たちは、通路から庭に出ました。塀の内側には石畳が敷かれ、その上に塀に面するように三十の部屋が建っていました。 18 これは『下の石畳』と呼ばれ、入口の通路の長さと同じ幅でした。 19 それから、この神殿の『外庭』と呼ばれていた庭から内側の塀までの距離を測ると、百キュビトありました。

20 その人は私を連れて、東の門から北に向いた門へ行き、そこを測りました。 21 ここにも、両側に控え室が三つずつあり、大きさは東の門と同じでした。全長は五十キュビトで、控え室の屋根越しに端から端まで測ると、幅は二十五キュビトありました。 22 窓も、玄関も、なつめやしの木の彫刻も、東の門のものと全く同じでした。七段の階段があり、それをのぼると入口があって、玄関に通じていました。 23 この北の門も東の門と同じで、通路を通って庭に出て、そこをまっすぐ横切ると内側の塀に通じ、そこを抜けて内庭に出ます。この間の距離は、やはり百キュビトありました。

24 それから、その人は私を南の門に連れて行き、その通路の各部を測りましたが、前の二つの門と同じ寸法でした。 25 壁に沿った窓も同じで、玄関もありました。他の通路と同じように、その通路も長さ五十キュビト、幅二十五キュビトでした。 26 玄関に通じる階段も七段で、壁にはなつめやしの木が彫刻してありました。 27 ここでも、通路を通って庭を横切り、内側の塀の通路から内庭に抜けることができました。この間の距離も百キュビトありました。

28 それから、その人は私を南の門の内側の塀に連れて行きました。その人がその通路を測ったところ、外側の塀の通路と同じ寸法でした。 29-30 控え室も、柱も、玄関も前のものと全く同じです。壁や玄関の窓もそっくり同じです。通路も同じく、長さ五十キュビト、幅二十五キュビトです。 31 ただ一つ違っていたのは、玄関に通じる階段が七段ではなく八段になっていることでした。柱のなつめやしの木の彫刻も前のものと同じでした。

32 それから、その人は私を庭から内側の塀の東の門へ連れて行きました。その人はその通路も測りましたが、寸法は他の通路のものと同じでした。 33 控え室も、柱も、玄関も、他の通路のものと同じ大きさです。壁や玄関の窓も、他の通路のものと変わりません。その通路も長さ五十キュビト、幅二十五キュビトです。 34 その玄関は外庭に面しており、柱にはなつめやしの木が彫刻してありました。階段は七段ではなく八段ありました。

35 それから、その人は私を北にある内側の門へ連れて行きました。そこの寸法も他のものと同じでした。 36 通路の控え室も、柱も、玄関も、他と変わりなく、通路も長さ五十キュビト、幅二十五キュビトです。 37 その玄関も外庭に面しており、通路の両側の壁にはなつめやしの木が彫刻してあり、階段は八段ありました。

38 玄関の一つの戸から脇間に通じていましたが、そこは、いけにえの肉を祭壇にささげる前に洗う所でした。 39 通路の玄関の両側には、それぞれ二つずつ台が置いてありました。その上で、神殿でささげる焼き尽くすいけにえ、罪が赦されるためのいけにえ、罪を償ういけにえが殺されるのです。 40 玄関の外側には二つずつ台が置かれていました。 41 それで内側と外側とで合計八つの台があることになります。その上でいけにえが切り裂かれ、整えられるのです。 42 また、四つの石の台があって、その上に肉切り包丁など、いけにえを処理するための道具が置かれていました。この台は一キュビト半平方で、高さが一キュビトありました。 43 玄関の壁には、一手幅(約七・四センチメートル)の留め金が幾つも取りつけてあり、台の上には、いけにえの肉を置けるようになっていました。

44 内庭には一間の建物が二つあり、一つは北の門のわきにあって南を向き、もう一つは南の門のわきにあって北を向いていました。 45 その人は私に教えてくれました。「この北の門のわきの建物は、神殿を管理する祭司のためのものだ。 46 南の門のわきの建物は、ツァドクの子孫に当たる、祭壇の責任をもつ祭司のためのものだ。レビの子孫の中で神に近づいて仕えることができるのは、彼らだけだからだ。」

47 それから、その人が神殿の前の内庭を測ったところ、百キュビト平方ありました。その内庭の神殿の前に祭壇がありました。

48-49 その人は私を神殿の玄関に連れて行きました。内庭からはそこに昇る十段の階段がありました。玄関の壁は両側に広がって壁柱となり、どちらも五キュビトありました。入口は幅十四キュビトセンチあり、その両わきの壁は三キュビトありました。玄関の間口は二十キュビト、奥行きは十二キュビトでした。

 

非常に緻密で整然としています。あくまでそれは、神の設計によるものであり、人の緻密さでも秩序でもありません。

同じ調子で繰り返される神殿の様子から何を感じとるべきなのか。聖書ではこのようなことが時々起こります。

実際に神殿を建設する者としては、それそのものをしっかりと理解して書き留めるなりしなければならないはずです。モーセは幕屋を緻密に作り上げましたが、それが求められているのですから。

 

これは神の秩序です。人にはできない緻密さは、計画性にあらわれているように思えます。そのことを、神の”御心”に置き換えるとしたら、それはとんでもなく緻密にデザインされているものだと言えます。

私はよく「神の御心」という言葉を使うのですが、人には「だいたいの方針」として見えているものであったとしても、神は完璧な計算の上で御心をお持ちだと言うことなのだと私は思います。

聖書全体がそうです。聖書は、神のデザインに満ちたものであり、動かしがたいもの。はっきりとはしませんが、そこに神の「聖」を感じます。この緻密さというのは、聖なるものが人の中にあるということであり、そうだとすると、人の間に来られたキリストの聖とも通じるものがあるように思えました。

 

読む、ということにおいては、正直、退屈なところです。しかし、神の聖がそのような寸法や設計、時に家系について長々と語られているとするなら、かなりの重要さであることを知るべきだと思いました。

 

その聖なる神との距離は、こうして人にはない圧倒的な緻密さによって「遠い」とか「近寄りがたい」ものであるわけですが、この距離を無くすためにイエスが来られたこともまた、即座に思わされます。イエスが十字架で全うされた時、神殿の幕が完全に裂けました。

ここに記されたいけにえの部屋に、イエスという神の子が持ち込まれたということでもあります。その生々しさもまた、感じずにはいられないことです。それが、現時点での「答え」と言えます。

 

今日の適用は、焦らず着実に、にしたいと思います。

これは、長きに渡って求められていることでもあります。

神への信頼が、何をやっても大丈夫、といういい加減さにあらわれているように思えます。神はこうして緻密に計算されているわけですから、人がそれを汲み取るためには、その衝動とか思いつき、反応を用いるのではなく、やはり、神への近づきと「待ち」が必要なのではと思うのです。

今日、特にそれを注意しようと思います。