「こうして、わたしは国々の中にわたしの栄光を現す。諸国の民はゴグが受けた刑罰を見て、わたしがそれをしたことを知る。 

22 その時から、イスラエルの民は、わたしが彼らの神、主であることを知る。 

23 諸国の民は、イスラエルが捕囚として異国に送られたのは、彼らの罪に対するさばきであったことを知る。事実、彼らは神を裏切る行為をしたからだ。それで、わたしは彼らから顔をそむけ、敵の手で滅ぼされるようにしたのだ。 

24 顔をそむけて、その大きな罪にふさわしく、彼らを厳罰に処したのだ。」

25 しかし今、神である主はこう語ります。「わたしは、わたしの民の捕囚を終わらせ、彼らをいつくしんで、また元のように栄えさせる。こうするのは、わたしの栄誉のためだ。 

26 彼らの反逆と恥辱の時代は過ぎ去る。彼らは祖国に帰り、平和で安らかな生活を送る。もう、だれにも脅かされず、悩まされることもない。 

27 わたしは彼らを、敵の国々から祖国へ帰らせる。そうする時、わたしの栄光がすべての国々に示される。イスラエルの民を通して、わたしのきよさが、国々の前で示されるのだ。 

28 その時、わたしの民は彼らを捕囚に追いやったのも、また祖国に連れ戻したのも、彼らの神である主であることを知る。わたしは一人も残さず国々から連れ戻す。 29 再び、彼らから顔をそむけることはしない。わたしの霊を彼らに注ぐからだ。」神である主がこう語るのです。

 

神のご性質は、相反する2面性があることを確認することが出来ます。もちろん、人の目や感性から見てのことです。

 

一つは絶対的な正義です。神は、イスラエルの民に言われたように、人の罪については「必ず罰す」と言われす。どんなに遅くとも、裁きの日には罪について糾弾され、罰されるということです。良い行いをしたからとか、かわいげがあるからとか、そのような人によっての妥協がありません。ほんの少しの罪を見逃されず罰されます。

 

もう一つは愛です。聖書は「神は愛なり」を明言しています。全ての人は罪人であるという前置きで、罪に対しては妥協の無い罰をくだされるのですから、全ての人は本来神の怒りから逃れることができません。

しかし一方で神は愛であられるがゆえに、その怒りは遅く、また慈しみを向けられて=かわいそうに思ってくださるお方です。

 

これら2つの神のご性質は、一見、人の罪において相反する分裂的なご性質に見えるかも知れません。

しかし、全てにおいて完璧であられる方は完璧にこの2つを一つとされ、罪人であっても神の罰を受けることなく天の国に入れる神の義を人に与えられています。

それが、キリスト、イエスです。

 

親の愛に似通います。もちろんそれは、親の愛が神の愛に似通うのですが。

子の罪について親が放置してしまえば、その子は罪を罪と認識せずに育ちます。

親は罪について糾弾し、その罰があることを教えたり、或いは罰を下す場合もあります。

しかし、親は子の罪も罰も、喜んで、楽しんで、いじめるのではありません。

親であるから仕方なくやります。何故かと言えばそれが愛だからです。

 

エゼキエル書でこんこんと預言されている、神のイスラエルへの懲らしめを、どのように受け取ればよいのか。

神は繰り返し「わたしが彼らの神であることを知る」と言われています。

これはこの章だけに限らず、ずっと神がこのエゼキエルを通じて語られるところです。

神は、罪に対して必罰の正義、しかしあわれみをもって回復をもたらしてくださる愛、これが本当の神なのだと、既にイスラエルを通して語られているように私には思えます。

性的快楽至上主義の神、幼児を焼き殺すいけにえを好む神、交通安全の神、安産の神、無病息災の神、人間には何の苦しみも与えず楽しみだけ与える神、そんな架空の神などいません。交通安全の神のお守りを買えば、みな無事故なんでしょうか。安産はどうでしょうか、病気はどうか。みな架空です。

 

私は、この聖書に存在をあらわされている神は、本物だ、実在だ、というより「真剣だ」と主張したいです。

イスラエルに向けられた正義と愛は、別の角度から見れば、「歴史」として存在する壮大なものです。そして、その壮大さが神をあらわしているのかと言えば、そうとも言えますが、それだけではありません。

信じる者一人、まだ信じない者一人の個人に対しても、歴史の壮大さと同じ情熱を向けられていることを、このエゼキエル書から現代人は悟るべきでしょう。

 

エゼキエル戦争はやがて起こります。

それによって、確かに聖書に書いてあることが現実に起こった、あれは本当だったのだ、と「知る」人は大勢いると思います。

しかし、人はそれだけでは信じないことを、同じ聖書が語っています。

神の存在を確認した時に、この絶対的正義と愛が、個人に向けられているものであることを自分のものとした時、人は信じます。この神が「神であることを知る」というところの真意は、そこにあると私は信じたいです。

神の愛、個人に対する愛は、イエス・キリストによって既に示されています。これがイスラエルだけではなく、人間一個人に示されている愛です。

 

今日、この預言から私に示されたのは、最終的にイエス・キリストです。

イスラエルは自滅したのでも、自力で回復したのでもなく、全ては神のみわざであったこと。そこから悟らされるものです。

神はイスラエルの回復”まで”をもって「きよさ」を示されると言われています。