「人の子よ、このこともゴグに預言し、彼にこう告げよ。メシェクとトバルの王であるゴグよ、わたしはおまえを攻める。
2 おまえを遠い北の果てから引き回すように連れて来て、イスラエルの山地まで攻め入らせる。そして、おまえの軍隊の大半を山の中で滅ぼす。
3 おまえの手から武器をたたき落とし、手も足も出ないようにする。
4 おまえもその大軍も山の中で死に、はげたかや野獣のえじきとなる。
5 おまえが町まで達することは絶対にない。野で倒れてしまうからだ。わたしがこれを語ったのだ。」神である主は言います。
6 「わたしは、マゴグや沿岸地域に安住しているおまえの同盟国すべてに、火の雨を降らせる。その時、彼らもわたしが主であることを知る。
7 こうして、わたしの民イスラエルの間に、わたしの聖なる名を知らせよう。わたしの名があざけられるようなことは、二度とさせない。諸国の民も、わたしがイスラエルの聖なる神、主であることを知る。
8 審判の日は必ずくる。わたしが予告したとおりに、すべてのことが起こる。
9 イスラエルの町々の住民は出て来て、おまえの盾と大盾、弓と矢、投げ槍と槍を拾い集めて薪とする。それは七年分もある。
10 七年間は、ほかに薪はいらない。野や森の木を切らなくても、それだけで十分間に合う。イスラエルの民は、略奪した者たちの持ち物を使うようになる。
エゼキエル書全体、と言ってもよいと思いますが、神の目的が明らかです。
神の存在とその力を知らしめるためです。
誰にかと言えば、このエゼキエル戦争については、全世界に知らしめるため、と言えそうです。
ゴグ、マゴグについて少し調べたのですが、現代のどの国にあたるかはさておき、黙示録でヨハネが「最後に起こる神に対する反逆」「神に完全に滅ぼされる」とされていることが、神の御心がよりはっきりとしたものとして受け取りました。
それを、このエゼキエル書38-39章のものとするかどうかは論争があるそうですので、あくまで私の受け取りです。
神がご自身を世界にあらわされるという意図と共に、際立ってくる事柄があります。
それは、バビロン捕囚からエルサレムの復興に続いて、終わりの日が近づく頃に起ころだろエゼキエル戦争への言及によって、はっきりしていることです。
イスラエル、イスラエルの民の勝利が起こるのではなく、神の力がイスラエルを通じて示されること、それによって世界が神を知ると言うことです。
イスラエルには結果的に勝利が与えられることになりますが、この勝利が神のものであることが大事です。
私はこのことから、現代のイスラエルへの取り扱いもまた、みちびかれる気がしました。現時点でははっきりとしないものですが、クリスチャンがイスラエルをどう祝福するのか、というところです。
イスラエルだから・・・という理由で、何でも肯定的に考える傾向もあれば、何でも否定的に考える人もいます。
しかし、イスラエルを通した神の御心が表されること、アブラハム契約によればイスラエルを通してすべての民が救われることが祝福の理由であり、そのご計画に沿った道を歩く者=信仰者であるからこそ、イスラエルを祝福するわけです。
世界情勢の一部分として、イスラエルに絶対的正義があるということを論説の骨子として語る方々をかなり見かけますし、絶対的悪で語る人もいます。そうじゃないなあ、と感じてきました。正しさと悪で切ること自体がナンセンスであり、神が手元に置かれている器としてのイスラエルという”群れ”を、聖書が示される通りに祝福すること。これがポイントだと思います。
前章によれば、ゴグらの連合軍は、「平和に暮らしている」イスラエルに攻め込むようです。イスラエルという国は既に存在しています。存在は祝福されるべきです。そして、イスラエルの平和、イスラエルの存続もまた祝福されるべきです。と、私としてはここまでですね、今のところ。
今日のみことばからは、負けの結論を急がない、ということになるかと思いました。
あの、骨から人を再生される神、の章があまりにも印象的で、ここから神とはどのようなお方かを推し量る一つになっています。
今日のみことばも、実はその一つとして見ているところがあります。強力な軍隊を持ち、圧倒的な軍事力でイスラエルに攻めいるゴグとその連合です。
世界はどう考えてもイスラエルの大敗北を予想するはずですが、結果は、その逆になります。イスラエルはそれら軍事を”薪”として利用し、7年間の余力を持つことになるのだと。
私には、敗北を考えているとあることがあります。
しかし、それにしても神がみちびかれたことであり、ただ敗北する失敗するのではなく、もう一度祈り求めて、神の力を求めて、変化に期待することが、今やらなければならないことだと、言われているように思いました。
すべてのことは起こる(現代から見れば起こったこともある)、と神が言われていますから。