32 しかし、このことだけはいつも心に刻んでおきなさい。こうするのは、あなたがたのためではなく、わたし自身のためなのだ。ああ、わたしの民イスラエルよ、あなたがたがしたすべてのことを、心の底から恥じよ。

33 神である主は語ります。「わたしは、あなたがたを罪からきよめる日に、祖国イスラエルに連れ戻し、廃墟と化した国を再建する。 34 捕囚の間不毛の荒れ地のように放っておかれた農地は、再び耕される。その地の荒れはてた姿に、そこを通る者は大きな衝撃を受けた。 35 だが、わたしがあなたがたを連れ帰る時、彼らは言うだろう。『神に見捨てられていた地がエデンの園のようになった。廃墟となった町々が再建され、城壁が築かれ、人があふれている。』 36 その時、まだ残っていた周囲の国々は、廃墟を建て直し、荒れはてていた土地に豊かな作物を実らせたのは、主であるわたしだということを知る。神であるわたしが約束したからには、必ずそのとおりになるのだ。」

37-38 神である主はこう語ります。「わたしは今、祝福を求めるイスラエルの祈りを聞き、その願いをかなえよう。彼らに祈らせなさい。わたしは、祭りの時エルサレムの通りを埋め尽くす羊の群れのように、彼らを増やそう。廃墟であった町々に再び人が満ちあふれる。その時、すべての者はわたしが主であることを知る。

 

神が歴史の中で着実にご介入されていること、いや、神主体で歴史が動いていることが預言によって明らかにされてきました。

そして今、イスラエルの回復を前に、神の真意が語られていると私は思うのですが、「あなたがたのためではない、わたしのためだ」と言われるところが、まさに根幹であると思いました。

 

もちろん、イスラエルの民に益となることをされるのですが、ここでの「ため」というのは、その益がどこから起きるかの意味であるように思いました。

イスラエルの民が良いことをしたから益を与えるのではなく、わたし=神の単独意思において実行される、ということかと思います。

そのことばのすぐ後に、イスラエルには叱責のことばがありますから。

 

それから、その神の単独意思がどこから来ているかを更に説明されていると思うのは、「約束したからには」の部分です。

約束において、神は完全にそれを履行してくださるということですが、これはこの章まで続く流れで、毎日似たようなことが語られているなとは思います。

 

ただ、今日、より神がイスラエルの民に投げかけておられるところは「祈らせよ」と言われていることです。

捕囚の前までは、偶像を拝んで、形ばかりの神殿礼拝はしていたイスラエルの民に「祈れ、その祈りのこたえて祝福する」と言われています。

その祝福とは、平安な気持ちになる、神様がいてるような感覚がある、というものではなく、極めて物質的なものです。

町に人が再び溢れる=経済的な発展がある、が、今日のみことばの中心だと感じています。

 

今までがどうあったかは、確かに、人の人生を決めているものではあります。

しかし、この神のめぐみ、神のゆるし、というものは、神主体のご計画に根差しているもので、それはエレミヤ29にあるように「将来と希望を与えるもの」であり、今までの状況から立ち返って、この神を心から信じて、心から求めて祈る者には、そのご計画にも立ち返らせてくださるのではと、そのようなイメージも同時に湧くわけです。

 

というのは、イスラエルにある神のご計画は、アブラハム契約にそのままある通りであり、これに忠実であられるか神がゆえに、イスラエルは破壊され、回復されるわけでです。

この神のご計画の先には、イスラエルを通じてすべての国を祝福するため、という項目があるのですから、イスラエルの回復は、計画通りであると同時に、その契約上の「乙」の回復でもあるわけです。

つまり、私たちにも大きく関係した契約の回復であったと言えます。

 

この構図は、現代の福音を通した契約、新しい契約にも当然つながりますよね。

これまでどうあったかは、神との関係においては、罪への悔い改めによって総まとめされ、回復が起きるわけです。個人の回復というより、神と人間の本来あるべき関係性の回復です。

それは、イエスが死んでくださったことは、私の罪が神からゆるされるためであったと認めて、その罪を悔い改めることが、人に求められる姿勢です。

そして神は祈れと言われていると、私は思います。

大金持ちになる祝福なのか、家族との関係が良くなる祝福なのか、わかりませんが、神がお持ちになっている、将来と希望を与えるご計画が有効になる祝福であることは間違いありません。

私は、信じて祈ります。全てのよいものは”神のために””神のゆえに”あると知らされています。