人の子よ、イスラエルの山々に預言せよ。この主のことばを聞け、と告げるのだ。 

あなたがたの敵はさんざんあざ笑い、昔からあなたがたのものであった高地を、自分たちのものだと主張している。 

そして、四方八方から攻撃してあなたがたを滅ぼし、多くの国々に奴隷として連れて行った。あなたがたはあざけられ、なぶりものにされている。」 

それゆえ、イスラエルの山々よ、神である主のことばを聞きなさい。主は、山や丘、谷や川、周囲の異教の国々にかすめ取られ、あざけられたまま荒れはてた農地、長い間見捨てられた町々に、こう語ります。 

「わたしの怒りは、これらの国々、特にエドムに対して燃えている。彼らはわたしを完全に無視し、楽しみながらわたしの国を横領し、自分たちのものにしたからだ。」 

それゆえ、イスラエルの山や丘、谷や川に預言せよ、と主は語ります。「あなたがたが周囲の国々に恥をかかされているので、わたしは大いに憤慨している。 だから、手を高く上げて誓う。これらの国々が恥をさらす時が必ずくる。

そしてイスラエルには、良い時代が戻ってくる。わたしの民が帰って来るためにくだものを豊かに実らせよう。わたしの民はもうすぐ祖国に帰って来る。 

さあ、わたしはあなたがたの味方としてあなたがたのところに行き、土地を耕させ、種をまかせる。 

10 わたしはイスラエルの人口を大いに増し加え、荒れはてた町々も再建して、人々で満たす。 

11 人だけではない。家畜も大いに増やそう。ああ、イスラエルの山々よ。そこにまた、家々がたくさん建ち並ぶ。以前にも勝って、あなたがたを栄えさせる。その時、あなたがたはわたしが主であることを知る。 

12 わたしの民はまた山々を歩き、そこを領土とする。もう二度と山々が、焼き尽くすいけにえとして子どもを偶像の祭壇にささげる場所となることはない。」

13 神である主は語ります。「他の国々はあなたをあざ笑い、『イスラエルの山々は、その住民を食い尽くす地だ』と言っている。

14 だが、もうそんなことは言わなくなる。」主がこう語るからです。「イスラエルの出生は増え、幼児の死亡は目に見えて少なくなる。 15 二度と異教の国々に見くびられることはない。あなたはもう罪人の国ではないからだ。」

 

クリスチャンとして、このエゼキエル書で読み取るべきポイントで、一つはっきりとしているなと思えるのでは、この歴史的イスラエルの回復も、またその前に起きた、外国からの侵略によるエルサレム陥落、イスラエルの滅びも、神の主権によってなされているということです。

神は、歴史の中で強くご介入されているという前提が強く示されているのですが、更に今日のみことばからは、神の契約に対する完全な誠実さ、これを聖書やクリスチャン界隈では「真実さ」と言ったりしますが、その神の真実さによって遂行されるものだと、強く心に刻まれます。

 

自分の状態がどんなものか、自分の信仰ステイタスがどんなもんか、人と比べて自分はどうか、自分は、人は、自分は、人は、と、神を信じていても、自分や人間にばかり目を注いでいると、神の存在がぼやけていってしまいます。

そうすると、まるで福音によって示された罪の赦しと救いが、自分の信仰によって達成するものだという勘違いに陥って、自分に喜び、自分に泣くというような、神不在の信仰という、ちぐはぐな状況を迎えてしまうことがあります。これは、私の体験からの話です。

しかし神は、”自分”がそのようにして勝手に揺れ動く中でも、全く動じずに、愛と絶対的正義を貫かれて、救いを既に完成されておられるままです。

それは、神がアブラハムとの契約を貫かれて、この時は、主体的にイスラエルを回復させられていることが証していると私は思います。

 

英語で表現されるところの"God's Faithfulness"という言葉が、長い間いまいち腑に落ちていませんでした。"Faith"というのは信仰とか信頼の意味ですが、信仰というのは人間が神を信仰しているのであり、神が何かを信仰しているのではないのになぜこういう言葉になるのかな、という感じです。

しかし、例えばこのエゼキエル書でのイスラエルの滅びと回復を、神が契約を履行されているものと固く捉える時、完全に腑に落ちます。

それは、神は必ず約束を守られる方であるという"Faithfulness"→「真実」ということです。完璧な誠実さ、とも言えるかも知れません。

なんと、イスラエル全体でリーダーが率先して偶像礼拝に没頭し、それを理由に快楽に浸かりきっていた状況にあっても、神は、それをぶち壊して回復されることで、契約を守り通してくださっているということを、今日私は強く感じています。

 

恐らく、滅びの苦しみにある時においては、そのことは全く見えないものです。

しかし、神がいよいよ、再びイスラエルを引き寄せられて回復のめぐみを与えられる時、感謝と共に、信仰においてその神の動きを確認できるのだと思います。

これも、その縮小版を体験した覚えがあります。

 

多くのみことばがここで吹き出てきますが、「わたしのめぐみはあなたに十分であるというのは、わたしの力は弱さのうちに完全にあらわれるからだ」というあのパウロの言葉です。

イスラエルという国や集団と個人とでは、少々見方を調節する必要があるのですが、神はなんと、人間の常識的観念から離れて、人の弱さに対して完全なめぐみをもたらされるお方です。

”Faith”を踏みにじり、快楽に走って戻らないイスラエルに対して、神はその"Faithfulness"のゆえにイスラエルを破壊し、ちゃんと"Faith"を回復され、生活や経済も回復される。一見、人間の歴史ではありますが、神のご介入が目に見えて現れたものです。

自分の弱さに落ち込む、情けなく思う、信仰を疑う、人生も疑う、そのような状態にあったとしても、神は変わらず「真実」な方であり、そのお方につながっておくこと(イエスは「わたしにつながっていなさい」と言われた)だけが回復の道です。

このイスラエルの姿とラップするのは、弱さというのは、神にあっては強めるというよりも、辿り着かせるものであると感じます。徹底的に弱さに辿り着かせることによって、神しかいないこと、神にのみ頼ること知らせる道であり、その時神は、めぐみを露わにしてくださる、力をあらわしてくださる。それは、人間からの信仰によって、というよりも、神の契約への”Faithfulness”によるものです。

呼び名として、契約の旧か新かの違いはありますが、今もそうだという神からのメッセージが、強く響き渡りました。

 

適用すべきところがあります。

それは、実家の家族とのことにありますが、私はこの4ヶ月間で、ついに自分の無力を体験するに至りました。それは、良かったことです。ただその状況に圧倒されて、自分には何も出来ないことを知り、一睡も出来ずにただ「主よ助けてください」と祈る瞬間を迎えました。

神はきっと、ここに働いてくださると思います。私は自分を評価する前に、ただ神とつながること、ぶどうの木から離れないこと、祈りを続けること、あえて「動く信仰」ではなく、「動かない信仰」によって状況を見つめることで、次に何が起こるのかを見てみようと思います。

明日、一つの区切りがあるので、余計にそのようなことを思うのですが、家族の中で唯一捉えられた私の信仰の理由で、神が約束を守ってくださるその一つとして働かれるみわざを見たいと思います。