再び、次のような主からのことばがありました。 

「人の子よ、セイル山の方を向き、そこに住む人々に預言せよ。」 

神である主がこう語ります。

「わたしはおまえの敵となる。こぶしでおまえを打ち砕き、完全に滅ぼそう。 4-5 おまえがわたしの民イスラエルを憎んでいるので、町々を破壊し、荒れはてさせる。その時、おまえはわたしが神であることを知る。わたしがイスラエルの罪をきびしく罰し、彼らが窮地に立たされていた時、おまえは彼らを虐殺した。」

主は語りますA。「わたしは生きている。そんなに血を流したいのなら、わたしがおまえを血に染めてやろう。今度はおまAえが殺される番だ。 わたしはセイル山の住民を一掃する。逃げ出そうとする者も、引き返して来る者も一人残らず殺す。 山々を死体でいっぱいにする。丘も谷も川もみな、剣で殺された者で埋め尽くされる。 おまえが活気を取り戻すことは決してない。永久に見捨てられ、町々も再建されることがない。その時、おまえたちはわたしが主であることを知る。

10 おまえは、『イスラエルもユダも、われわれのものだ。占領してしまおう。神がいようがかまうものか』と言った。」 11 それゆえ、神である主はこう言います。「わたしは生きている。おまえが怒りにまかせてわたしの民にした数々の行為に仕返しする。ねたみと憎しみに駆られた、おまえの行為のすべてを必ず罰する。わたしがおまえにすることを見て、イスラエルはわたしをほめたたえるようになる。 12 その時、『神の民と言っても、力も何もあったものではない。われわれの格好のえじきだ』と悪口を言ったのを、わたしが聞いていたことをおまえは知る。 13 おまえは主に対して不遜なことばを吐いた。それをみな、わたしは聞いたのだ。 14 わたしがおまえの地を荒廃させる時、すべての国々は喜ぶだろう。 15 おまえはイスラエルの恐ろしい破滅を見て喜んだ。今わたしは、おまえの破滅を喜ぼう。ああ、セイル山の住民よ、エドムに住むすべての者よ。おまえたちは一掃されるのだ。その時、おまえたちはわたしが主であることを知る。

 

注解にあたると、セイル山はエドムとのこと。エサウ系で、イスラエルとは近い関係の血縁と言えます。

そのエドムはエルサレムが攻められた時に、イスラエルと略奪しにかかったと。

 

エゼキエル書は、神が怒りを下す先であるエジプトやこのエドムが複数回登場するのですが、神の徹底した”再建”モードを感じます。悪をえぐり出している、というような。「わたしはおまえの敵となる」とは、絶望的なことばです。

 

エドムの何が悪か。直感的ですが陥落するエルサレムを、嘲笑し、更に叩き、仕返しをして略奪する、という悪があります。

特に強く神が言われるところ「そんなに血を流したいなら、わたしたお前を血に染めてやろう」というのは、あまりに強烈です。

更に叩く、この悪に対して特に怒りを覚えておられるように思いました。

 

「そんなに血を流したいなら」この神のことばが、私にはチャレンジです。

これを道徳観念と受け取るのはもってのほかですが、そういうところ、確かにあるなと思うのです。私には。

 

心身に傷つく人を更に傷つけようとか、そういうところは無いんです。

ただ、そういう不幸なことを喜ぶまではいかなくとも、それを見て一種の安堵を得るようなところがあります。

これが本心かどうか、自分でもわからないのですが、例えば、友人が何か素晴らしい業績をあげた時とか、良かったなあ、と思う一方で、自分に虚しさのような焦りのようなものがふっとあるのがわかります。

ですから、うまくいって欲しくない気持ちが燻っているんでしょうね。

 

これが、そういう事業のことならまだましですが、例えば命のことならどうでしょうか。

神がここで指摘されているのは「血」、つまり命です。私が自分の虚栄心のようなものによって、誰かの命まで軽々しく扱うようなことはあってはならないということです。