また、次のような主からのことばがありました。

「人の子よ、羊飼いであるイスラエルの指導者に預言せよ。彼らに言え。」神である主は語ります。「羊の世話はそっちのけで、私腹を肥やすことしか考えていない羊飼いは災いだ。羊飼いなら羊を養うべきではないか。 自分たちは最上の物を食べ、最高の衣をまといながら、群れの羊を飢えさせている。 弱い羊の面倒を見ず、病気の羊を介抱せず、骨を折った羊の手当てをせず、迷って行方不明になった羊を捜すこともない。それどころか、力ずくで残酷な支配をしてきた。 だから、羊は羊飼いがいないために散らされ、野獣のえじきとなってしまった。 わたしの羊は山々や丘など至るところをさまよったが、捜し出してくれる者も、世話してくれる者もいなかった。

それゆえ、羊飼いたち、主のことばを聞け。」

神である主はこう語ります。「わたしは生きている。おまえたちはわたしの羊を放り出し、野獣に襲われても助けようとしなかった。おまえたちはほんとうの羊飼いではなかった。だから、いなくなった羊を捜し出そうともしなかったのだ。自分はたらふく食べて、羊を平気で餓死させていた。 9-10 わたしは羊飼いたちに、わたしの羊の身に降りかかった災いの責任を問う。彼らにはもう羊を飼わせない。また、彼ら自身が食べることも許さない。わたしの羊を救い出す。彼らのえじきにはさせない。」

 

”主はわが羊飼い、私には乏しいことがありません。”

とは、詩編23の冒頭ですが、まずこれを思い出さずにはいられませんでした。

 

ダビデは完璧な信仰者であったわけではありませんが、信仰の中で成長を遂げたリーダーでした。つまり、自分が牧者としての役割がある一方で、神に牧されていたと言えます。

 

今日のイスラエルの指導者への神のことばは、指導者として足りなかった部分の指摘ではなく、根本的に、神に牧されることなく神の子羊である民を牧しているかのような絵図を浮かび上がらせるものである気がしました。

 

これを広範に適用して、世の中のリーダーかくあるべきを述べるところではないと思いますが、その理想、本当の組織発展や満足のポイントが示されている気はしました。

そして、そういう観点からもう少しだけ思考を伸ばすと、理想的なリーダー像が示唆される一方、逆説的ですが、牧される羊のあるべきところも示されている気はしました。

 

理想のリーダーというのは、要するに、イエス・キリストです。

人として来られた方です。その方は、自分のためではなく、他人が生きるために自分の命を進んで捨てられた方です。

そして何より、神としてではなく人として来られたところに、極限的な謙遜があります。人への愛があります。

普通、これと同じ種類の愛は、人間にはありません。しかし、イエスを信じてついていこうとする時、このような愛を持つ人となれるように願い、試み、祈るわけです。これは、私は聖霊による祈りだと思いますが、そのようにして徐々に倣っていくわけです。私はそれが、人にあるべきリーダーシップの素養だと感じています。

 

今日のみことばからは、全ての人が「神の羊」として扱うということです。

実は、今日のみことばで最も心に刺さってきたのは、神が、「わたしの羊」と表現されていることです。

クリスチャンなら多くの方が、肌身離さず持っているみことばがあると思いますが、私のそれのうちの一つは

「この小さい者にしたことはわたしにしたのです」というイエスご自身のみことばです。

今日のみことばでのその「わたしの羊」と「この小さい者」というのは、厳密に言えば同じだと思います。

リーダーであるかどうかの前に、神に羊に対してどのような態度を取るべきかを、今日は教えられました。