再び主からのことばがありました。

「人の子よ、あなたの同胞に告げよ。わたしがある国に軍隊を差し向けると、その国では見張りを立て、 敵軍の来襲を見て警報を鳴らす。

その時、警報を聞き流して死ぬ者がいても自業自得だ。 

警告を聞いてもそれに従わなかったのだから、非は彼にある。警告に従っていたら、助かっただろう。 

だが、見張り役が敵の来襲を見ながら警報を鳴らさず、警告もしなかったなら、人々の死の責任は見張り役にある。人々は自分の罪のために死ぬが、その死の責任は見張り役にある。わたしはその責任を問う。

 

人の子よ、あなたにも言う。わたしはあなたをイスラエルの見張り役とした。だから、わたしの語ることに耳を傾け、わたしに代わって彼らに警告せよ。 

わたしが悪者に向かって、『悪者よ。おまえは必ず死ぬ』と言うとき、あなたがそれを伝えなければ、彼は悔い改めることをせず、その罪のために死んでいく。ただし、わたしはその死の責任をあなたに問う。 

あなたが悪者に悔い改めるように警告しても、それを聞かないなら、彼は自分の罪のために死ぬ。しかし、あなたには何の責任もない。

 

10 イスラエルは、『自分たちの犯した罪が重くのしかかって、私たちはすっかりやせ衰えた。どうして生きていられよう』と嘆いている。 

11 彼らに告げなさい。神である主がこう語る、と。わたしは生きている。わたしは悪者どもの死を喜ばない。それどころか、悪者が悪の道から悔い改めて生きるようになることを願っている。さあ帰って来なさい。悪の道から離れ、立ち返るのだ。ああ、イスラエルよ。なぜ、そんなにも死にたがるのか

 

12 たとえ正しい行いをしていた人でも、罪を犯すなら、その人は救われない。どんな悪者も、その人が悔い改めて罪から身を引くなら、滅ぼされることはない。 

13 わたしは『正しい人は生きる』と言った。しかし、今まで良いことをしてきたから大目に見てもらえるだろうと罪を犯す人には、以前の正しい行いは何の役にも立たない。わたしは、その罪のゆえに彼を滅ぼす。 

14 また、わたしから『必ず死ぬ』と言われた悪者が、罪から身を引いて立ち返り、きよく正しいことを行うなら、 15 すなわち、質草を返し、盗んだ物を償い、正しい道を歩んで悪を行わないなら、彼は必ず生きる。決して死ぬことはない。

16 もう二度と、過去の罪によって責められることはない。正しい道に立ち返ったから、彼は必ず生きるのだ。

 

17 それでもイスラエルの民は、『主は公正ではない』と不平を鳴らす。問題は、そう言っている彼ら自身が正しくないことだ。 18 もう一度言う。正しい人でも、悪の道に入るなら、必ず死ぬ。 19 悪者でも、悪から身を引いて、きよく正しいことを行うなら、必ず生きる。 20 おまえたちは今も、『主は公正ではない』と非難している。わたしは、おまえたち一人一人を、その行いに従ってさばく。」

 

ネットフクリックスで映画を見ることがあるが、娯楽として一番面白いのはリベンジものだ。

当初、正義が悪にやられるが、最後には正義が悪を倒す、というような。

 

今日のみことばから、神が人間と全くそのご性質において違うとわかるのは、神は罪人の裁きを喜ばれていないということだ。

私は心のどこかで、以前福音を伝えながらもそれを否んで神に立ち返らずに生きている人を、いずれ痛い目にあえばよいという感覚を持ちながら見ているところがある。

ここをまずは糾弾された。

 

もちろん、クリスチャンは神の聖なる偉大なご性質を持って生きて行かなくてはならない、というわけではない。そうではない。

ただ、神との関係性において、神といつも共に歩き、弱さのゆえに働かれる主のご介入を体験し、愛を知り、愛を持ってそのようになりたいと願っていく、そのような姿があって然るべきかな、と感じている。

私は神を信じているが、神と共に歩きながら、時には共に歩かない選択肢を持っている。こういう二心への糾弾なのかも知れない。

これは聖書にそう書かれているわけではないのだが、罪人への裁きを、ご性質としては一切の妥協なく行い、心としては苦しみの中で行われるのだということを思い、心に留めておくべきだろう。

 

それで、ここで言われる「警告」の役割が、この時代にはエゼキエルにあり、今の時代は私にもあることもまた知らされる。

福音の前提は、確かに警告でもある。人は全て罪人であること、人の罪は自分の善行によって中和されたりしないこと、その罪を神は本来受け付けられず、裁かざるを得ないこと。

これが罪、人、神の言わばデフォルトの関係性だが、これを完全に解決する方法が福音となる。

神はデフォルトの関係性によって、人を裁かれたいとは思っておられず、それどころか、人が求めるか求めないかに関係なく、キリストの犠牲を払ってその方法を用意してくださっている。これが福音であり、神の愛のあらわれだ。私が言葉にするとこんなにも安っぽくなるが、この神の愛は、あの神が懸命に救いのために働かれた印であり、親から子への愛に似て強く普遍的なものだ。

 

そして、切実な愛でもあることを、今日のみことばから悟らされた。

このみことばの背景はあくまでバビロン捕囚時代のイスラエル。

しかし、神は今も同じ神、神の愛は今も同じであり、この警告は、そのまま滅びるなよという切実な願いが込められていることを思った。

 

私自身は、で、何を思ったのかと言うと、「悔い改めよう」というものだ。

私は救われているものだけれど、相変わらず人の世界に生きて罪と隣り合わせの毎日を送る。

その中で、悔い改めるというのは、傍から見れば、自己葛藤のようなものだろうが、これは自己警告でもある。

一方で「伝えよう」とも思った。聖書はこの警告のためにあると言ってもよい。

その両方の思いに同意して、聖霊の強いみちびき、ご介入によって動かされていきたい。