20 次のようなことばもありました。

21 「人の子よ、シドンの町にこう預言せよ。」

22 神である主がこう語ります。

「シドンよ。わたしはおまえの敵となり、
わたしの力を現そう。
おまえを滅ぼして、わたしのきよさが示されるとき、
それを見る者はみな、わたしが主であることを知る。
23 疫病をはやらせ、兵を送って滅ぼす。
傷ついた者たちは町の通りで、
四方から攻め寄せる敵兵に殺される。
その時、おまえはわたしが主であることを知る。

24 おまえも、他のイスラエルの近隣の国々も、かつてはイスラエルをさげすみ、邪険にしてきたのだが、これからはもう、いばらやとげのようにイスラエルを突き刺したり、引き裂いたりしなくなる。

25 イスラエルの民は、わたしがその先祖ヤコブに与えた地に再び住むようになる。散らしておいた遠くの国々から、わたしがもう一度、彼らを集めるからだ。こうしてわたしは、国々にわたしのきよさを示す。 26 彼らはイスラエルに安らかに住み、家を建て、ぶどう畑を作る。こうしてイスラエルをさげすんだ回りの国々がみな罰せられるとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知る。」

 

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この時代のシドンと言えば、あの北イスラエルの悪王アハブの妻であるイゼベルの出身地としてすぐに出て来る

 

つまり、イスラエルに罪をもたらした町であり、神がイスラエルを滅ぼす根拠であったと言える

そのシドンに対して神が「敵対」を宣言されるが、ここには神の絶対的正義があらわれている、正義は明確だ

神は罪を看過されているようには見えても、いつまでも放置されないし、それがイスラエルにもたらされているものであれば、処置が来るのは必然だ

神にとってイスラエルは重要な計画の民、その罪の根源の一つであったのだから、イスラエルをレストアしてシドンは引き続き看過されるなどは、ない

レストアの一環と言えるのではないか

 

イスラエルを再び集めることが預言されているのは、これは神はフェーズを回復へと移されるところ

神はその主権を明確にされて「わたし」が集め、住まわせ、示す・・・と、ここは連呼になっている

 

神の絶対的な正義によるさばきは、神の極限的な厳格さのあらわれというだけではなく、あくまでレストアであることも見えて来る

イスラエルの王国化は、イスラエルの民が望んだ国家システムだが、初代王サウルから始まり、ソロモンで最盛期を迎えながら南北に分裂し、さらに長い年月の中で罪に支配される→神によってレストアされる他道はなくなってしまった

レストアというか、リストラだ

ノアの時代の洪水は全人類が罪に満たされたために起きたリストラであったが、この縮図がイスラエル王国に起きたようにも見える

 

この章は、特にイスラエル王国への神のさばきを別角度から見る良い機会となっているが、このことを通じて信じる者である私が知らされるのは、神は精神世界にのみ存在されているお方ではないという重要な事実だ

 

この現実世界に具体的にあらわれているものは、罪であれば今は看過されているだけ、良いものであれば神から出ていること、そして、その良し悪しというのは、神の目にしかわからないということを、真剣に受け止めるべきではないか

 

それは、神が絶対的正義者→聖であられると同時に、愛→これも聖であられることを証しているものとも言える

精神世界のみで神を扱ってしまったら、一体人はどうやって悔い改められるだろうか

つまり、神との関係は、現実世界で起きることによって回復されるのだと、うっすらと勘づかされる

これは、福音に深く共通することだと思う

 

これは、昨日や一昨日のQTとあわせて黙想すべきだろうが、気持ちだけではなく、具体的に、神との関係が回復している者として、どう具体的にいられるか、だ

徹底的に福音に帰る必要があるが、悪い例、つまり、神との関係が断絶したままであれば、シドンになる

罪の赦しを受け取っている者として、今日、同意して生きること

福音に帰るとは、具体的に回復されたことを思い出せば、すぐにわかることだ

生活がどう回復されたか、人間関係がどのように変化したか、喜びの価値観がどう変化したか

全て、神が罪と言う遮蔽物を除いてくださって、神との関係が回復したことから与えられた具体例だ

そのことによって「わたしが主であることを知る」と言われているのだから、それを証する人生を歩むべきであることは明白だ

 

私は、違法な金貸しで失敗した→金主に莫大な借金

金の切れ目は縁の切れ目で裏切りにあった

もうこんなことはしたくない、美しく生きたい、人生をやり直したいと心から願った

とある事案で知り合ったとある士から牧師を紹介された

牧師から福音を聞いた、受け入れた

教会に行くようになった、祈るようになった

会社がいよいよ経営困難になり、どう畳むか逃げるかを考え出した

共同事業者が借金返済日に自殺した

収入がなくなり金主への莫大な借金だけが残された

会社の会計問題、税問題が噴出した

借金取りが来るようになり、事実上教会に逃げ込んだ

会社維持が不能となった

別の会社の会社員になった

金主から訴えられた→法的処理となった

裁判には負けたがなんと私の勤め先とその金主のつながりがあり、勤め先が肩代わりすることによってその莫大な借金は返済された

税務問題が「首謀者死亡」で扱われてお咎めなしになった

実家の両親と暮らすことになった

家内と教会で出会った

 

神との関係が回復されたことによって、私に起きた具体的な”さばき”と”平安”だろうと思う