1 神は、エルコシュに住むナホムに、ニネベに差し迫っている運命について次のような幻を示しました。
2 神は、ねたむほどにご自分の民を愛している。
だから、その民を痛めつける者たちに復讐する。
その民の敵をすさまじい勢いで滅ぼす。
3 神は怒るのに遅いが、いったん怒ると、
その力は信じられないほどで、簡単には赦さない。
その力を恐ろしい台風や暴風雨の中に示し、
渦まく雲も、
神の足の下でかき立てられる砂ぼこりのようなものだ。
4 命じると、海も川も乾いた砂地となる。
バシャンとカルメルの青々とした草はしおれ、
レバノンの緑の森も枯れはてる。
5 神の前に出ると、山々は震え、丘は溶ける。
大地は崩れ、その住民は滅ぼされる。
6 だれが、怒りに燃える神の前に立てるだろう。
神の怒りは火のようで、
山々はその怒りの前に崩れ落ちる。
7 主はいつくしみ深い方、
苦難に会うとき、身を寄せるべき場所だ。
主は、ご自分に信頼する者をすべて知っている。
8 しかし、敵はあふれみなぎる洪水で一掃し、
一晩中追いかける。
背景は、ヨナ書では悔い改めが起こった繁栄都市ニネベが後になって神に滅ぼされるという、言わばニネベの結末です。
これ、町を擬人化しているような感覚を受けるのですが、あくまでそこに住む個人の集合が引き起こした体制、文化、習慣ということになるでしょう。
ここから想像できることは、罪の一般化と拡散です。
本当は罪であるのに、まるでそれをやらなければ普通ではないというような社会。
そして、それが代々に引き継がれてしまう罪の伝承も起きます。つまり拡散。
これはつまり、罪の性質であると思います。
罪の種菌は、個人の中で広がり、別の個人へも広がっていくということかと。
やがて社会通念的に罪が常態化していく。”町が擬人化されている”というのはそういうことだと気づかされました。
神は、人間の一生などという短い時間はなく、永遠にずっと人も町もご覧になっておられます。
その目、その思い、その真剣さのことを「ねたみ」と表現されているのだと思います。
そして、ついに先のような町になってしまえば、滅ぼすことによって罪を食い止められると、そのようにも見えてきます。
学校の部活で何か問題が起きて、それが組織内で蔓延している場合、廃部にさせる、という事が起きます。
罪の性質、そして人全体と神との関係の摂理レベルで、町や国ごと亡ぼすことが合理的になってしまう状況と言えると思います。もちろん、組織判断などではなく、神の支配の中で起きることです。
ノアの洪水が最大でしょうし、イスラエルの民を入らせたカナン、イスラエル王国、バビロン、ソドム、ゴモラ、エジプトもそうであったか知れません。また、イエスが次に来られる時は、今の世の中の体制の終りを意味しています。これは、やはりその摂理が働く時であり、神の統治へと変わっていくステップとなります。人類は、そこに向かっていることもまた、しっかりと覚えておくべきでしょう。
しかし、みことばは語っています。神はあくまで個人を見ておられるということです。どれほど罪が常態化した国、町、組織にあっても、悔い改めあるところには赦しがあります。神は、雑に組織ごと吹っ飛ばされるわけではありません。遠心分離のような、選別のような手段を取られているように思えます。
今日のみことばからは、組織がどうあれ、所属がどうあれ、個人としてしっかりと悔い改めを神へのおそれに立つことです。
私はただ、そんなに立派な信仰者というわけではありませんから、社会や組織の中の個人として、神の名を汚さないようにすることの方が先に考えるべきことです。
しかしながら、罪の常態化はここでも起きています。社会が許していても、神には明確な罪ということは山のようにあります。
ですから、両方です。神の栄光をあらわすためと、そういう罪の社会に染まらないこと。今日は特に意識したいと思います。