ところが、この主の計画変更にヨナはひどく腹を立て、 主に文句を言いました。「主よ、私が国にいて、ニネベへ行けと最初に言われた時、こうなさることはわかっていたのです。ですから私はタルシシュへ逃げたのです。あなたが恵み深く、あわれみに富み、なかなかお怒りにならず、思いやりのある神であることを知っておりましたから。ニネベの人々を滅ぼす計画も、簡単に取りやめることになるだろうと、わかっていました。 

主よ、どうか私を殺してください。私が人々に語ったことが偽りになったのですから、生きているより死んだほうがましです。」

すると、主は言いました。「このことで、あなたは当然のように怒るのか。」

 

ヨナは町の外に出て、不機嫌な顔で、町の東側に腰を下ろしました。そこに木の葉の茂った日よけ小屋を作り、町がどうなるかを見るつもりだったのです。 

小屋を覆っていた葉っぱが暑さでしおれてしまうと、主はとうごまを用意してすぐに成長させ、大きな葉がヨナの頭の上で日をさえぎるようにしました。それで彼は快適になり、とても喜びました。

ところが、神は一匹の虫を備え、翌朝、その虫が茎を食い荒らしたので、とうごまは枯れてしまいました。 

太陽が昇って暑くなると、神は焼けつくような東風を吹かせました。太陽が頭にじりじり照りつけたので、ヨナはすっかりまいって死にたいと願い、「こんな思いをするくらいなら、もう死んだほうがましです」と言いました。

 

神はヨナに言いました。「この草が枯れたことで怒るのは当然のことだろうか。」ヨナは言いました。「もちろんです。死ぬほど怒って当然です。」

10 すると主は言いました。「あなたは、日よけが壊れただけでそんなにも嘆いているが、あれは自分が働いて作ったものではないし、もともと、はかないいのちでしかないものだ。 

11 だとしたなら、このニネベのように大きな町をわたしが惜しまないはずがあるだろうか。そこには、霊的な闇の中にいる十二万の人々と、たくさんの家畜がいるのだ。」

 

言語や表現の影響があるでしょうが、ヨナというのは、かなり粗暴な印象を受けます。

私は船底に隠れた彼の心境を「やけくそ」と考えたのですが、その様子がまだ続いているようです。

大きな魚の中で祈って救われた命なのに、また「死んだ方がまし」みたいな話になっています。

 

ヨナは全くけしからんことを神に言っていると思いますし、かなり自己中心的な考えを神の前で爆発させているようでもあります。

死んだ方がまし、というのはその流れの中にある言葉ですが、実際に死ぬことになれば、ヨナはまた命乞いのように祈るのでしょう。

 

このヨナの姿に対する神のリアクションに、私は人と神との関係の断片を見ているように思いました。

確かにヨナはやけくそで粗暴ですが、神の方を向いてけしからんことを連発しています。

神は、ヨナにレッスンを与えておられます。厳しさはありますが、守りもあります。

 

ここでのヨナが正しいとは思いません。ただ、神の方に向いて話し、神から受けて教えられる、教師と生徒のようで親と子のようでもあり、そこにはとってつけたような信仰ではなく、恒常的なしがみつきというか、切ろうとしても切れない鎖を感じます。

 

私は、神に対して自分が良いものであろうとしています。

しかし、特に旧約聖書に出て来る”信仰の勇者”たちは、神に対してさえも本気で向かい、断片的には間違いもあり神からの怒りが下されますが、それらを通してさらに関係が深まるというところ見ます。

良いものであるよりも、本気である必要があるのではないか。真剣というのは、”恒常的なしがみつき”と同じことですが、自我も含めた自分自身の曝け出しとか本音の絞り出しにあたってくるような気がします。

 

良いもので正しくあろうとしても、本性が知れているわけです。

そこにいつも葛藤が生まれるのですから、一時的なよそ行きの方をむしろ捨てて、ただ神に向かうことをしなければならないのでは、そのように思うわけです。

それが、本気ということになります。

 

大事なことは、神の方を向いて自分自身をさらけ出すこと。

神に見せること。さあこれが何なのか、です。