1-2 主は再び、ヨナに語りました。「あの大きな町ニネベへ行き、前に命じたように、滅びが迫っていることを警告せよ。」

そこでヨナは、言われたとおりニネベへ行きました。ニネベは非常に大きな町で、その周囲にもたくさんの村々がありました。町を一回りするだけでも、歩いて三日かかるほどでした。 4-5 しかし、ヨナが町に入って説教を始めたその日から、人々は悔い改め始めたのです。ヨナは回りを取り囲んだ群衆に、「今から四十日後に、ニネベは滅びることになる」と叫びました。すると、彼らはヨナのことばを信じて断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで、すべての者が荒布をまとって、悲しみを表したのです。

 

ニネベの王は、ヨナが語っていることを聞くと、王座から下り、王服をわきに置いて荒布をまとい、灰の中に座りました。 そして王と大臣たちは、町中に次のようなおふれを出したのです。「何人も、動物さえも、食べ物を口にしてはならない。水も飲んではならない。 荒布を身にまとい、ひたすら神様に向かって叫べ。暴力や強奪をやめ、悪の道から足を洗うようにせよ。 もしかすると、神様は私たちを生かそうと決め、怒りを静めて、滅ぼさないでくださるかもしれないからだ。」

10 こうして神は、彼らが悪の道から離れたのを見ました。それで、彼らを滅ぼす計画を思い直し、それを実行しませんでした。

 

何年か前の列王記QTは、とても大事なものであったと思います。

どうしてイスラエルが一旦滅びるに至ったのかがよくわかりました。

まるで遺伝のように、霊的に「神を蔑ろにする」ことを世代から世代に渡って引き継いでしまうのだなあ、という感覚を受けました。

これを、「神を信じる」に変えてそれを継いでいくには、人の力では無理なのかも知れないと思いました。

そのためにイスラエルを滅ぼされたように見えたからです。

 

その視点でニネベの町を見ると、ここに奇跡が起きていることがわかります。

神を恐れないことから、恐れる者たち、そういう町に変わっています。

そして、ヨナに焦点を当てるなら、神は「もう一度」語られています。

 

イスラエルの話に戻りますが、王政が始まったイスラエルは、いきなりサウルで躓いています。

読んでいる者としては、サウルが悔い改めていればなあ・・・というところが何度かありました。

私見に過ぎませんが、私はイスカリオテのユダにさえ、悔い改めるチャンスはあったと思います。

しかし、自分への落胆で終わってしまい、神に悔いて改めるに至りませんでした。

 

神はヨナに「もう一度」語られたことは、めぐみそのものです。

ヨナは大きな魚の中で神心を注ぎだして祈りました。そして「もう一度」が与えられました。

そして、ヨナはニネベで語り、なんと王が率先して神に向かうという奇跡が起きました。王国イスラエルでは起きなかったことが、ここで起きています。

 

米国のクリスチャンはよく「restoration」という言葉を使うと思いますが、このヨナ書では私は赦しよりもこのrestoration→回復・修復という表現が、神の御心としてしっくりと来ます。

神のご計画は、赦しのご計画に違いないのですが、それは回復であること、つまり神ご自身と人との関係修復であり、あきらめられていないということです。

 

私は、悔い改めなければなりません。

「この人は信じないなあ」、とか、思ってしまうことがあるからです。

また、どのように福音を伝えるかの点で「その言い方では信じられない」みたいな、ことも思います。

しかし、神は当事者として、赦しに取り組んでおられることをこのヨナ書からは教えられるのです。

そして伝えるとは、それに賛同することです。そもそもめぐみによって始まっている神のご計画が、人の力云々でどうにかなると考えていることがおかしいと、私は思いました。

クリスチャン用語的に言うと、神の圧倒的主権によって、救われ得ることがここでは証されています。

それは、救われることであり、救いのために働くことでもあるのですから、全ての人が当事者ということであり、神ご自身の当事者性もまたクローズアップされて来て、とても希望があると思いました。

 

今日、私は自分に関することで、「神を見て技術を問わない」ということにしたいと思います。

神の偉大なめぐみの力は、神ご自身が望まれるところ(restoration)に注がれているということを思い出し、それに賛同し協力すれば、力は与えられるのだと信じたいと思います。