12 しかし、これだけは言わせてください。私たちが伝えたとおり、あなたがたが、キリストの死からの復活を信じているのなら、なぜ、「死んだ者は二度と生き返らない」と言ったりする人が出るのですか。 

13 もし死者の復活がないなら、キリストは今も死んだままのはずです。 

14 もしそれが事実なら、私たちが宣べ伝えていることは無意味であり、あなたがたの信仰も価値のないものとなるのです。 

15 そして、私たちは、大うそつきということになります。なぜなら、もし死者の復活がないのなら、神はキリストを復活させることはなかったはずですが、私たちは、「神がキリストを墓からよみがえらせた」と主張しているからです。 

 

16 もし死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったでしょう。 

17 そして、もしキリストが復活しなかったのなら、信仰はむなしく、あなたがたは今も罪の中にいるのです。 

18 また、すでに死んだクリスチャンは、みな滅んでしまったことになります。 

19 もしクリスチャンであることが、この世の生活でしか価値がないのなら、私たちほどみじめな者はありません。

 

復活の事実を云々とやるのが私は好きな方ですが、今大事なことは、神はどうしてキリストを復活させられたのか、というところだと思いました。

 

私が思うところですが、永遠のいのちとは、人における復活とは、復活後の体とは、このようなものだと人に知らしめるため、なのだろうと。

 

日本ではよく誰かが亡くなった時、「〇〇さんはあなたの心の中で生き続けている」ということが言われたりします。

私はこのことをとても大事にしていて、亡くなった方のことを記憶にとどめるようにしています。忘れたくないからです。

 

しかし、キリストの復活とは、このこととはまるで違うことです。

生体として死亡したものが、生体として復活して生き返っているということです。

心の中で生きたのではなく、弟子たちの前にあらわれて「おはよう」と言ったことは、本当だと言うのです。

 

つまり福音とは、この救いの力が自分自身に入る(何と言えばいいか)ということです。

それは、その復活の力の根源である神からの罪の赦しによってなされるというのですから、悔い改めてください、イエスを信じてください、というのは、私があれこれかっこつけているものではなくて、まだ信じていない人が新しく受けることが出来る利益についての話なのですから聞いて欲しいのです。

 

聖書を読むこと、礼拝式、讃美歌、何らかの活動、全部素晴らしいものですが、それらによって救われて、やがてイエスのように生体として復活するわけではありません。

自分が罪人であることを認め、神に赦しを乞うこと。そうすれば、神は赦されます、と聖書は言っています。その赦しによって、やがて復活がもたらされます。

神以外の誰もそれは出来ません。神のみがお出来になること、それがはっきりと示されたのがキリストの復活です。

 

私は更に、この復活が、死後に起きる出来事としてではなく、今の生き方とか状況を新しくする力であることを強調したいです。

罪による支配から解き放たれた生き方に現れる、と言ったところです。

これは私自身が体験していることです。

神は、死んでからはじめて愛してくださるのではなく、まだ死んでいない今、もっと前の神を知る前から、母親の胎内にいる時から、です。

その方を信じる、というのは、その愛に気づき、信じること・愛することで答えたということです。

そのことは、信じたその時から、人生そのものが変えられていくことを意味しています。私がそうだったから、信じるも何も、これは事実です。

これは、パウロが言う、

”19 もしクリスチャンであることが、この世の生活でしか価値がないのなら、私たちほどみじめな者はありません。”

と関係があることです。

 

今日のみことばからの適用は、もうそのままです。

復活を信じること、信じる者の生き方に立ち返ることです。

今、信じていないのではありません。これを何度も何度も自分のものとして強く抱くことは、クリスチャンのこの世での生き方の一つです。