さて、皆さん。福音とは何なのかを思い出してほしいのです。それは、以前あなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが喜んで受け入れたものです。そして、あなたがたの信仰は、そこに根ざしているのです。 2 もし初めにいい加減な気持ちで信じたのでなく、今もなお堅く信じているのなら、この福音は、あなたがたを救ってくれるのです。
3 まず私は最も大切なこととして、かつて自分も知らされた、次のことを伝えました。すなわち、キリストは、聖書に記されているとおり、私たちの罪のために死なれ、 4 葬られたこと、そして預言者たちの語ったとおりに、三日目に復活されたことです。 5 また、キリストはペテロに姿を現し、そのあと十二弟子の残りの者にも現れました。
6 さらには、五百人以上のクリスチャンにも姿をお見せになったのです。その中の何人かはもう死にましたが、大部分は今も健在です。 7 それから、キリストはヤコブ(主イエスの兄弟)に、そして使徒たち全員に現れました。 8 そして最後に、信仰の未熟児のような私の前にも現れてくださったのです。 9 私は、使徒の中では一番小さな者であり、使徒と呼ばれる資格さえない者です。神の教会の迫害者だったのですから。 10 今の私があるのは、あふれるほどに注がれた神の恵みとあわれみによるのです。この恵みとあわれみは、むだではありませんでした。なぜなら、私はほかのどの使徒たちよりも働いてきたからです。けれども、実際に働いたのは私ではなく、私のうちにある神の恵みです。 11 よく働いたのが、私であろうとだれであろうと、そんなことは問題ではありません。大切なのは、私たちが福音を宣べ伝え、あなたがたがそれを信じたという事実です。
どうしても復活の話に心が引き寄せられます。
復活されたイエスは、弟子たちに加えて、パウロにも姿を見せられて、500人以上もの人に現れたのだと。
これは、作り話でしょうか。私はそうは思いません。
この手紙は紀元50年頃のものと言われます。これが作り話であるなら、馬鹿な話として相手にもされなかっていったはずです。
イエスが復活されたのは紀元30年頃、つまり20年前に起きた出来事についてですから、真偽の見分けは容易です。
今から20年前、つまり、2001年頃に起きたことは、割と覚えているはずです。
イエスは復活されました。
ここでパウロが主張するところにもしっかりと耳目を向けなければならないと思います。
それは、パウロが自身を証しているところです。
自分が教会の迫害であったにも関わらず、イエスはパウロに姿をあらわし、神のめぐみによって福音を伝える者とされたこと、そしてそのめぐみによって他の誰よりも働いたと言っています。
しかしパウロは、自分は特別だったと言いたいわけではなく、それによって「あなたがたが信じたこと」が大事だと言っています。ここですね。
誰が伝えるか、誰の伝えによって信じるか、そういうところが私にはあります。
おれがおれが、となるわけです。しかも、それが出来ていない状況が頻繁にありますから、落胆もするわけです。
どうでもよいと思えてきました。
以前、活動していたミニストリーに、違う形で再び関わることになりました。
それは、外国から日本に来てくれた宣教師たちによる影響があります。
伝道は、今日出来た出来なかったと言うものではなく、どんな宣教団体であろうが、誰であろうが、広めた、信じた、が全てです。それでよいではないか、と思いました。
その中の1粒として私がいることの喜び(信じたものであり、広めたものでもあり)が、今は大事だと思います。それが、教会にパウロが言っていることでもあると思うのです。賜物領域の話として語っていますが。
”私”、これはもう、どうだってよいなと。与えられた賜物を、広めるため、信じるために発揮すること、それだけで良いと思います。
今日のみことばからは、再び関わったそのミニストリーに関して一つ進めることです。
自分には大丈夫だろうか、という不安がありましたが、そんなことは考えなくてよいことがわかりました。