愛を、最高の目標にしなさい。それと共に、聖霊が与えてくださる賜物、特に、神のことばを伝える預言の賜物を求めなさい。
2 もしあなたが、聞いたことのない特別なことばである異言を語る場合、それは神への語りかけであって、人々へのことばではありません。人々には、そのことばが理解できないからです。あなたは聖霊の力によって語るのですが、それはみな隠された奥義なのです。
3 しかし、神から託されたことばを語る者は、人々を励まし、慰め、人々の主にある成長を助けます。
4 ですから、異言を語る者は、自分の信仰を成長させますが、神のことばを語って預言する者は、教会全体が成長することと、きよくなることとを助けるのです。
5 私はあなたがたがみな異言を語ることを望んでいますが、それにもまして、神のことばを語って預言することを望みます。なぜなら、聞いたこともないことばで話すよりも、預言することのほうが、はるかにまさっており、有益だからです。もっとも、異言のあとで、その内容をわかるように説明できるなら、それも少しは役立つでしょう。
6 愛する皆さん。私があなたがたのところで異言を語ったとしても、どうして益になるでしょう。しかし、もし神から与えられた啓示を明かし、神を理解する知識や預言、聖書の解き明かしを語るなら、それは、あなたがたにとって必要かつ有意義なことです。
7 異言で語るより、はっきりした、わかりやすいことばで語るほうがよいことは、笛やハープのような楽器のことを考えてみてもわかります。はっきりした音色が出なければ、どんな曲を演奏しているのか、だれにもわからないでしょう。
8 もしラッパがはっきりした音を出さなければ、それが戦闘の合図であっても、兵士にはわかりません。
9 相手に理解できないことばで話しかける場合も同じことです。まるで、だれもいない空間に話しかけるようなものです。
10 世界には非常に多くのことばがありますが、どのことばも、それがわかる人にはすばらしいものです。
11 ところが私がそのことばを知らなかったら、話しかけてくる人と私とは、お互いに外国人同士ということになります。
12 あなたがたは、聖霊が下さる賜物を熱心に求めているのですから、教会全体の益となるような、最善のものを求めなさい。
「神のことばを伝える預言の賜物を求めなさい。」とあります。
愛を最高の目標とするにあたって、その一つのあらわれとしている点で重要だと思いました。
これまでのパウロのコリント教会への記述は、「愛」の質についてますます深く掘り下げられていると感じています。
そして、教会の中での人との関係とか交わりで表されるその根底部分にたどり着いた、と。そういう読み方をしました。そこが「預言」です。
もちろん、ノストラダムスで有名なった「予言」ではなく、神のことばを取り次ぐと言う意味での預言なのですが、ここに愛があらわれるのだとパウロは主張しています。
それがわかるのは、教会の中だけではなくとも、その預言によって私自身も救いへとみちびかれていったことから、その大事さを肌身で感じています。
言い換えるなら、「神の愛」をあらわすことであるし、神の御前に人を引き出すことでもあります。
それは、自分ではなく、他の人に利益をもたらす具体的なアクションと言え、これがパウロが既に語るところの「自分ではなく他人に向ける愛」と完全に一致します。
そのアクションによって、励ますことが出来ます。
私はなんとか愛を持って人に接しようと、特にここ数日間は意識して取り組んでいます。
教会でもそれをやりましたが、そういう一種の精神論で臨んでみると、「おとなしく黙っていた方がましだな」という限界が見えて来ました。
これは、神を悲しませる心持かも知れませんが、自分から出る言葉の拙さで”嫌になる”わけです。
これは、ただ変に焦っているだけかも知れません。
しかし、パウロが言う「神のことばを伝える預言の賜物を求めなさい。」という、まずは神に求めることをしなかった、アプローチの失敗だけははっきりと感じます。
そしておそらく、この賜物こそが根底なのだと思います、今は。
だからこうです。
「主よ、私に賜物を与えてください。自分のことに夢中になるのではなく、他人に対して夢中になって、その人を慰め、その人を励まし、目線をあなたの方に向けさせ、あなたにもっと近づきたいという思いを持たせるための、あなたのことばを語ることが出来る賜物を与えてください。私には、自分自身を愛する愛はあっても、自分をむしろ捨てて、他人を自分のように愛する愛がありません。どうかその愛を与えてください。そして今日会う全ての人に、その愛でもってあなたのことばを語らせてください。」
私はここに、人生における全ての”解決”さえ感じることが出来ます。
つまり、自分の問題も実は、この方法によって解決に向かうということです。
4月から、私の人生の中でも大きなイベントが起き、それは楽しいものではなく、解決を要するものとなっています。
そこから、大事なことが神から知らされていると思っていますが、今日のこの「預言の賜物」は一つのカギとなっていると思います。
イエスが無罪であるのに、自ら十字架にかかっていのちを捨てられたことは、一見すると「一貫の終わり」のような大敗北に映ります。
しかし、神にあってはその「イエスが捨てられた」ことによって、全人類が益を得ました。そのことによって、イエスが益を得た、と言うとカルト的ですが、用意されていた完璧なソリューションの遂行であり、救いそのものであったわけです。よしよし予定は完了した、なのです。
私は神ではありませんから、誰かを救うソリューションを持ち合わせないのですが、その神のソリューションを体験し賛同している者であり、この種の物事の動き方の法則性をうっすらと感じています。
だから、自分ではなく他人を愛するための愛を賜物として受けることは、自分もまた違う角度から神のソリューションに入っていくことであるのだと、うっすら、感じるのです。
このことは、あの有名な「まず第一に、神の国とその義を求めなさい。そうすれば、それらに加えて全て与えられます。」というイエスのみことばにもつながってきます。
神の国とその義を求めたのに、「加えて」与えらえるものがあるのです。
自分の救いを切に求めなさい、ではなく、神の国とその義を求めること。それは、預言の賜物を求めることもまた含まれてくるのではないですか。
イエスはまたこうも言われました。
「求めなさい、与えられる」。
それは「神様、トトビッグを当ててください」とお願いしたら「当てられる」と言うことではないでしょう。
そんな毒や安物ではなく、もっと大切で永遠なるものを求める時に「与えられる」と言っておられたのです。
今日はこのようなことにフォーカスしました。