27 ですから、もしふさわしくないままでこのパンを食べ、主の杯を飲む人がいれば、彼は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。 

28 したがって、聖餐に臨む前に、めいめいが注意深く、自分を省みなければなりません。 

29 もしキリストの体を気にもかけずその意味を考えもせずに、ふさわしくないままでパンを食べ、杯を飲むなら、神のさばきを招くことになります。キリストの死をもてあそんだわけですから。 

30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、また死者も出たのはそのためです。 

 

31 しかし、食べる前に注意深く自分を省みるなら、さばきや懲らしめを受けることはありません。 

32 けれども、私たちが主にさばかれ、懲らしめられるのは、この世の人々といっしょにさばかれないためです。

 

33 こういうわけですから、愛する皆さん、主の晩餐に集まる時は、皆がそろうまで待ちなさい。 

34 ほんとうに空腹な人は、家で食べなさい。それは、いっしょに集まりながら、自分の身に罰を受けないためです。そのほかのことは、そちらに行ってから話しましょう。

 

聖餐についてのみことばだけれど、私が思ったことは、肉体としての体、ではなく、主に買い取られた霊の体としてどうあるべきか、どう保たれるべきかにつながることであるということです。

 

この世の人々と一緒にさばかれないためには、十字架にかかってくださったキリストを覚えて、自分の罪を探り出すことが一つの過程になってきます。

罪があるから聖餐式に参加出来ないと考える人も中にはいますが、それは違います。

罪を覚えてキリストに与るわけですから、罪がわかっていることがまずは重要です。

 

そして、パンを食べる杯を飲む、ということが何なのかを肉体側で噛みしめることが出来ます。実際にそのことによって健康になったとか、栄養が満たされるわけではないのですから、それは確かにパウロが言うように、いわゆる食事ではありません。

 

私は聖餐式をとても大事に思っていました。

アッシャーとしてパンとワインを、お一人お一人の救いに思いを込めて分配しました。

これは特権で、何が去来するかと言うと、教会という体を感じてくるのです。

そして自分の分を頂くと、感情とは違う涙がさらっと出てくる不思議がいつもありました。キリスト、イエスが確かに教会であられることを覚えるということになりましょうか、私には説明がつきませんが、そういう体験がありました。

これは、一人では出来ないことです。

 

ところが、今はそのようなものはありません。

もちろん、私個人は、キリストの御前に救いの当事者であり続けています。

しかし、何と言うか、思いの部分について、随分と渇いたなあと思います。

いや、枯れたなあ、かも知れません。

一人で救われようとしているところがあるのかも知れません。

そして、そういう私に主が語り掛けておられるのだろうと思います。

 

パウロは自分の救いについて、必死で守ろうとしているのではないことがわかります。

要するに、自分の救いはもう決まったという確信の上で、自分などはどうでもよく、他の人、教会に全てを向けています。

 

ありがたいことに、私は一つのミニストリーに参加しました。

ここに実践の機会があります。あのさらっとして溢れ出て来た涙を取り戻す時である気がします。