愛する皆さん。昔、私たちの先祖が荒野でどんな経験をしたか、決して忘れてはなりません。神様は、雲を先導者として立てて、彼らを導きました。また、全員が安全に紅海を渡りきれるように導きました。 

これは、彼らの「バプテスマ」であったとみなしてよいでしょう。彼らは、モーセに従う者として――すなわち、指導者であるモーセにすべてを任せて――海と雲によってバプテスマを受けたのです。 

3-4 さらに神様は奇跡によって、荒野で彼らに食べ物と飲み水をお与えになりました。彼らはキリストから水をいただいたのです。キリストは、信仰に新しい力を与える力強い岩として、いっしょにおられたのでした。 

それにもかかわらず、大部分の者が神に従わなかったので、神様は、彼らを荒野で滅ぼされました。

 

この事実から、大切な教訓を学べます。悪事を追い求めてはならないこと、 また、偶像を拝んではならないことです。〔聖書には、金の子牛を拝むために、「人々は座っては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。〕 

ほかにも教訓があります。彼らのうちのある人たちが外国人の女と不道徳な罪を犯した時は、一日のうちに二万三千人もが死にました。 

彼らのように、主がどれだけ忍耐してくださるかを試すようなまねをしてはなりません。主を試そうとした人たちは、蛇にかまれて死にました。 

10 また、彼らのように、神に向かって文句を言ったり、「神のなさり方は不当だ」などと不平を言ってはなりません。そのために、神様は天使を遣わして、彼らを滅ぼされたのです。 

11 先祖たちの身に起こったこれらのことは、同じことをくり返してはならないという私たちへの警告です。それが記録されたのは、世の終わりが近づいている今、私たちがそれを読んで教訓を学ぶためです。 

12 ですから、よく注意しなさい。「私は、そんなことは絶対にしないから大丈夫」などと思っている人がいれば、そういう人こそ注意しなければなりません。同じ罪を犯すかもしれないからです。 

13 このことを覚えていてください。あなたがたの生活の中に入り込む誘惑は、別に新しいものでも、特別なものでもないということです。ほかにも多くの人たちが、あなたがたよりも先に、同じ問題にぶつかってきたのです。どんな誘惑にも抵抗するすべはあります。神様は決して、とてもたち打ちできないような誘惑や試練に会わせたりはなさいません。神様がそう約束されたのであり、その約束は必ず実行されるからです。神様は、あなたがたが誘惑や試練に忍耐強く立ち向かえるように、それから逃れる方法を教えてくださいます

 

イスラエルの人たちがエジプトを出て荒野で過ごした40年は、神を信じる現代の信徒にとっても重要なディスプレイであることがわかります。

 

神は、雲によって100万人規模の民を導きました。

神は、紅海を分けて海底を歩いて渡らせました。

神は、食料を与えられました。

神は、彼らと共におられました。

 

私のこれらのことについて、全て史実である、という立場です。

教科書に掲載されていることが事実であることもまた、大部分は「信じる」という心の動きによってもたらされるのと同じように、私はこれらを見たり、体験したりしたわけではありませんが、同じ「信じる」という心によって、史実であるとしています。

 

そしてパウロは、その神のよってみちびかれ、守られたイスラエルの民が、神を信じずに背いた結果どのようになったのかもまた説明しています。

 

悪事を追い求めたこと→むさぼったこと→神に感謝するどころか「肉が食べたい、マナでは足りない」等不平を吐いた→感謝して満足すべきだった

 

偶像を拝んだこと偶像を囲んで飲み食いして楽しんだ→偶像を拝むべきではなかった

 

モアブの女と性的罪→モアブの神々への礼拝→性的誘惑に対してなされるがままになった→性的な罪を犯すべきではなかった

 

これらも全てディスプレイされています。

わかることは、食と性についての貪りがポイントであることがわかります。

昔、大阪ミナミや北新地と言ったところに、毎晩のように出かけていたことがありました。

時々は遠征したのは、東京の六本木や銀座です。

美味しいものを食べて、それから女の人が座るクラブに行きます。

食べ物と性。これが毎日のようにエスカレートしていったことがよくわかります。

ちなみに私はまったく愚かで、本当に毎日程行っていたため、あるだけの金を使いきった挙句、店のつけが払えなくなって色々と人様にご迷惑をかけてしまいました。

欲の貪りとは、底なし、理性なしであることを身をもって知りました。

 

今日のみことばからの実践は、特に、食を貪らないこと、とします。

中毒というのは、生理的に起こるものと精神的なものがあると思いますが、聖書で貫かれる貪欲というのは、極めて霊的なものであると感じています。

どっちが先かと言うと、私はまず精神的なものではないかな、と思うのです。

そこに悪がつけこんできます。

 

十分にお腹は満たされているのに、美味しいからという理由で、まだまだ食べてしまう。

私に関しては、こういうことを辞めることが、戦いになってくるのだろうなと思っています。

 

昨日のQTでパウロは、福音を伝道するものの資質について述べていたと思います。

福音を語りながら、福音的ではない者でいてはいけないということです。

これはつまり、少なくとも罪に対してしっかりとファイティングポーズを取り続けることであると思うのですが、つまり、それが今日の実践です。