11 私たちはあなたがたの心に、良い霊の種をまきました。とすれば、そのお返しとして食べ物や着る物を求めるのは行き過ぎでしょうか。 

12 あなたがたは、神のことばを伝えてくれたほかの人たちには、そうした必需品を提供しています。それは当然のことです。すると、なおさら私たちは、それらを求める権利があるはずではありませんか。けれども私たちは、一度もこの権利を持ち出したことはありません。かえって、働いて自活し、援助を受けませんでした。どんな報酬も求めなかった理由は、キリストの福音を妨げるのではないかと心配したからです。 

 

13 あなたがたは、神殿の奉仕者が神にささげられる食べ物の一部を自分のために受け取ってよいことを知らないのですか。また祭壇に仕える奉仕者は、主へのささげ物の一部をいただくのです。 

14 同じように主は、福音を宣べ伝える者が、それを信じるようになった人々から生活を支えてもらうように定めておられます。 

15 けれども、私はあなたがたにわずかなお金も要求したことはありません。今からでもそうしてほしいと、ほのめかしているのでもありません。実際、無報酬で主のために働くという誇りを失うくらいなら、私は飢え死にしたほうがましです。 

 

16 それというのも、福音を宣べ伝えても、別に私の名誉にはならないからです。たとえやめたいと思っても、やめるわけにはいきません。当然、果たすべきこの任務をもしやめたら、全くみじめなことになります。福音を宣べ伝えなかったら、私は災いに会います。 

17 もし、自分から進んでこの務めを引き受けたのであれば、主は私に特別な報酬を下さるでしょう。しかし、そうではなかったのです。神様が私を選び出して、この聖なる任務につかせてくださったのであって、選ぶ自由などなかったのです。 

 

18 このような状況で、私の受ける報酬とはどんなものでしょう。だれにも負担をかけず、自分の権利を少しも主張せずに、福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び、これこそ私の報酬なのです

 

今まで何度も読んだ1コリントですが、今朝あらためて読んでわっと何かが溢れるものを感じるのは、私も少しずつ変えられているのだなあ、ということと受け取っています。

 

どこに焦点を置いてるか、ということを自問します。

私は間違いなく伝道したいと思っているのですが、伝道することが伝道の妨げになることを恐れて、伝道出来ないでいます。

それは、ここでパウロが言う「生活の支え」の方に、あまりに重点をかけすぎているということかと思います。

パウロが自分の権利を受けるよりも、伝道そのもの、他人の救いそのものにフォーカスしたことは、これはそのまま、私に投げかけられている提案というか、フレームワークだと思いました。

 

海外から日本に来てくれた宣教師さんやそのご家族との交わりが2週連続であります。

私はそこから学びたいと思います。伝道を、選択肢ではなく、任務として受け取って実践しておられる方々から、ぜひ励まされたいと思っています。

 

パウロが伝道そのものから来る喜びを自分のこの上ない報酬と言っていること、ここに立ち返っていく。世の報酬、営みを前提とするような義務感を手放す。

こうして今日、満たされたことは偶然ではなく、自分のおおきなビジョンが神の御手によって動かされていることを信じたいです。

 

燃やされたみことばを思い出します。

エレミヤ書の、主のことばが私の中で燃えているからそれをしまっておくことが出来ない、というもの。これが溢れ出てくるものの正体でしょう。