9 私は使徒ですから、他のだれからも自由なのです。私は実際、この目で主イエスを見た者です。あなたがたの人生が一変したのは、私が主のために一生懸命働いた結果なのです。 

たとえほかの人が私を使徒と認めなくても、あなたがたにとって、私は確かに使徒なのです。あなたがたは、私を通してキリストに導かれたのですから。

私の使徒としての権利を問題にする人たちに対して、次のように答えることにしています。 

いったい私には、どんな権利もないのでしょうか。ほかの使徒たちのように、あなたがたの家で、客としてもてなしてもらう権利はないのでしょうか。 

また、もし私にクリスチャンの妻があればの話ですが、ほかの弟子や主の兄弟やペテロ同様、妻を連れて旅行もできないのでしょうか。 

ほかの使徒はあなたがたから生活費をもらっているのに、バルナバと私だけは、生活のために働き続けなければならないのでしょうか。 

いったい、自費で軍務につかなければならない兵士がいるでしょうか。丹精した作物を食べる権利のない農夫の話など、聞いたこともありません。世話をしている羊や、やぎの乳も飲めない羊飼いがいるでしょうか。 

私は、人間的な考えで言っているのではありません。律法でも同じことを言っているのです。 

神様は、モーセにお与えになった律法の中で、「穀物を踏んで脱穀している牛に口輪をかけて、その穀物を食べる自由を奪ってはならない」(申命25・4)と言っておられます。神様は牛のことだけを心にかけて、こう言われたのだと思いますか。 

10 私たちのことも、心にかけておられたのではないでしょうか。働く人が、その人のおかげで益を受ける人々から報酬をもらうのは当然であることを、神様は教えたかったのです。耕す者も脱穀する者も、当然、収穫の分け前にあずかることを期待してよいのです。

 

以前、教会の人たちとやや議論になった話題がありました。

それは、伝道活動にマルチビジネスを持ち込む人たちのことです。

正しいか間違っているか、私にはわかりません。ただ怖いです。

彼らが持ち込んだものは、米国かどこか忘れましたが、どこかのキリスト教会関連から始まったミネラルウォーターのマルチで「聖書的」という説明を受けました。

 

この時、議論になったのは、イエスがエルサレムに入られた時の宮殿でのおことばです。

宮の中に商売人が入り込んで商いを行っていたところ、祈りの家を強盗の巣にしている、と激高されました。

教会やミニストリーも祈りの家と言えますから、そこにマルチを持ち込むこと自体に違和感があります。

ただ、随分大きなマルチの組織でしたから、そんなに問題は無いのだろうという思いもありました。

私もかなり誘われましたが、商売への参加、客としての参加は断固として断りました。怖いからです。

 

昨日、今日のみことばを読む限り、マルチの持ち込みはだめだなと思いました。

マルチだからだめなのではなく、教会を商売の場所に使っているだとか、金儲けのために福音を売っているかのような誤解を招くようなことはだめだと確信しました。

パウロは、新しいクリスチャンに、経済的な負担というつまづきを与えないために、金が与えられるという正当な権利さえ放棄していると言います。

 

パウロはそこまでやったんだな、という熱い思いもあります。

何のためかと言えば、福音の拡散のためであり、救いのためです。

権利を主張するのではなく、むしろ放棄しています。

 

ただもう一つ感じることは、パウロの嘆きでもありました。

わかってくれよという。弱さとか、人間らしさというより、私はこのパウロに共感のフックを感じました。

パウロは、優秀であっただろうし、活動においても立派でしたが、私と同じ人の営みを持っていたわけです。

パウロがやっていたことが、私には無理ということはありません。

聖霊の力によって、同じことが出来ることを教えられているようにも思いました。

 

今日のみことばからはなかなか適用が難しいです。

ただ、パウロは、全てを救いのために、福音のために生きていました。

それは、自分自身の犠牲の理由でもありました。

私は今日、「それも福音のためか」という自問を持ちたいと思います。

それを細部に徹底していく時、もしかすると、聖霊の力を受けて変われるかも知れないという期待があります。