クリスチャン同士の争いが生じた時、どちらが正しいかを、他のクリスチャンに判断してもらうのではなく、異教徒の法廷に訴え出るとはいったいどういうつもりですか。 

いつか、私たちクリスチャンがこの世をさばき、支配する日が来ることを知らないのですか。この世こそあなたがたにさばかれる運命にあるのに、どうしてあなたがたは、内輪のそんなささいな事件さえ解決できないのですか。 

クリスチャンは、天使さえもさばくようになることを知らないのですか。この地上での自分たちの問題をさばくくらい、容易にできるはずです。 

それなのになぜ、教会外の、クリスチャンでもない裁判官のもとへ出向くのですか。 

あえてあなたがたに恥をかかせようと、私はこう言うのです。いったい教会には、こうした争いを解決できる賢明な人が一人もいないのですか。 

だから、クリスチャンがクリスチャンを訴え、しかも、それを不信者の前に持ち出すようなまねをするのですか。 

そもそも、訴え合うこと自体がクリスチャンにとって、すでに敗北です。なぜ、不正な仕打ちに甘んじようとしないのですか。だますよりはだまされるほうが、もっと主に喜ばれるでしょう。 

ところが、あなたがたは不正を行い、だまし取り、しかも兄弟(信仰を同じくする者)に対して、そのようなことをしているのです。

 

9-10 こんな者が神の国を相続できないのは、当然ではありませんか。思い違いをしてはいけません。不道徳な生活をしている者、偶像を拝む者、姦淫する者や同性愛にふける者は、神の国を相続できません。どろぼう、貪欲な者、酒に酔う者、人をけなす者、強盗も同様です。 

11 あなたがたの中にも、そんな過去を持つ人がいます。しかし、主イエス・キリストと神の聖霊のおかげで、今はもう罪を洗い流され、あなたがたは神のために聖なる者とされ、神に受け入れられているのです。

 

信徒が信徒を訴えるというケースを私は見たことがあります。

献金を返せと、牧師さんを訴えたのです。

このことを思い出しました。とても大事なことでした。

 

その時は、牧師の態度が気に入らないということで訴状を送り付けたその信徒に怒りを燃やしたものです。

しかし、パウロが言う敗北のポイントと言うのは、世の法にクリスチャン同志の問題が裁かれることです。

ダニエル書や黙示録に示されているように、クリスチャンはやがてキリスト共に世を治めることになります。世の中を見下すことになるというより、最終的には信じる者しかいなくなるでしょう。

その”いなくなる”勢力に裁かれ行くとはなんたることか、というパウロの叱咤です。

 

そして、私はこれをもっと実践しなくてはならないと思うのですが、

「なぜ、不正な仕打ちに甘んじようとしないのですか。だますよりはだまされるほうが、もっと主に喜ばれるでしょう。 」

 

私はここで、”クリスチャン同志のいさかい”であることを前提にすべきかどうかわからないのですが、不正を甘受する、騙すくらいなら騙されておく、この解決の方向性は、実践していかなければならないマストであるように今日、示されたのだと思います。

 

献金を返せと訴えたそのお話。

私は当時、怒りに燃えて、自分の知り合いの強い弁護士を牧師さん側につける、などということを話した覚えがあります。

しかし牧師さんは、まさにこのこと「訴訟になること自体が敗北です」と言って、代理人名義で突き付けられた要求を飲み、全額返金されました。

私としては悔しさでいっぱいであったのですが、ベストであったのだと思います。

返金を受けた方も、あれから聖書を開き続けているならば、いつかこのことがわかって、信仰にしっかりと帰られたことだと思います。

そして、私もまた、こうしてあらためて鮮明に御心に従った牧師さんのことを思い出し、勝利の方程式を確認するに至っています、今日。

 

方程式、ですね。

一見、敗北に見えるものであっても、それは神にあって大きな勝利へとつなげられる。

無茶苦茶な要求であっても甘んじて飲むことは敗北者に見えます。しかしそれを手続きとして、勝者へとみちびかれている主の御手があります。

イエスキリストの十字架での死は、弟子たちにとって敗北そのものでした。しかしそれが、この世を大きく揺るがし続ける勝利へのプロセスでした。

 

今日の実践は、敗北を取る、です。

文字通りに行くと変な感じですが、イエスが言われることに従うにあたって、もしこの世の中で「敗者」とか「馬鹿者」だとされたとしても、それを選ぶということです。

イエスが何を言われたのかについては、わかっていることが沢山あります。わかっていないこともありますが、わかっていることだけでも今日、それを守るために敗北を取りたいと思います。